茜色の約束

彼女の名

 
 学校が終わって、僕は昨日と同じように駅に降り立った。
 
 カメラを構える。
 
 昨日は驚きのあまりできなかったのだが、僕はこの場所で空の写真を撮ることが日課だった。

 重明とは朝は共に学校に行くが、帰りは一緒ではない。彼が料理部に行っているからだ。写真部は料理部と違い自由だった。現像したい時に行けばいいという緩い部活であり、どんな人が所属しているのかもよく分からなかったのだ。もはや部というより、同好会と言ったほうが正しいほどだ。


 周囲に誰もいなことを確認し、僕は夢中でシャッターを押す。

 高積雲の隙間から空が見える。夕焼けに重なるその姿は、まるで真っ赤に燃えている炎のようだった。

 数十分後、次の電車が来た。僕は写真を撮ることを一旦止め、電車や電車から降りた人が去っていくのを待った。去ってしまい静かになって、もう一度、カメラを構えた。

「ずっと、撮っているのね」
 
 どこからか、声が聞こえ、僕は慌てて辺りを見渡した。

 改札の向こうに彼女は立っていた。改札を何もせずに抜け、プラットホームにすたすたと入ってくる。駅員がいない無人の駅ではあるが、プラットホームにお金を払わずに入ってきた人を初めて見た。

 僕の横に並んだ彼女はぼくの身長より少し低いぐらいで、あまり変わらなかった。

 彼女は僕の目を真っ直ぐに見て言った。
「私、ずっと待ってたんだけど」
 彼女はまた腕を組む。
「そんなこと言われても・・」
 僕は彼女と待ち合わせなどしていない。彼女は確かに昨日、お金を払うまで待つといったが、僕は何も言わなかった。彼女に怒られる理由などないのだ。

 彼女は僕に右手を差し出してきた。
「昨日、言ったよね?十万円払ってって」
 彼女は笑う。
「そんなの、払えないよ」
 僕がそう言うと、彼女は怪訝な目で僕を見た。
「じゃあ、警察に言うよ?この人に盗撮されたって」
「それはそれで困る」
 彼女はわざとらしく、大きな息を吐いた。長い足が揺れ始める。貧乏ゆすりをしているのだ。
「わかった。じゃあ、一万円でどう?」
 彼女はそう言うと、彼女の細く長い、白い人差し指を高く伸ばした。
 僕は「払えない」と小さい声で言った。
 彼女はますます怪訝な顔を僕に向けた。
 
 それから、高く伸ばした人差し指を今度は、僕の手元に向けた。
「それを売ればいいじゃない」
 僕の手元にあるのは、僕の一眼レフカメラだった。
「それを売ったら結構高そう。ちょうど一万円ぐらいにはなるんじゃない?よく分からないけど」
「無理だよ。絶対に売らない。売るものか!」
  僕は自分でも気づかないうちに大きな声をあげていた。静かなプラットホームに僕の声が響く。

 彼女は目を丸くした。突然の僕の大声に驚いたのだろう。
 彼女は固く口を結び、それから俯いた。
 数秒の沈黙の時間が過ぎ、ようやく彼女は口を開いた。
「ごめんなさい・・」
 微かな声で、彼女は俯いたままそう言った。

「僕もごめんなさい」
 僕も謝ると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「そのカメラ、大事なの?」
「うん。僕の宝物なんだ」
 彼女は「ふーん」と言う。

「写真撮ること、好きなの?」
「うん。他のどんなことよりも、好きなんだ」
 彼女はまたも「ふーん」と言う。今度は笑みを浮かべていた。

 その笑みを見て、僕の心はなぜだかじわりと熱くなった。
 昨日、空を見上げていたときと同じ微笑みだったからだろうか。

「ごめんね。君の写真を撮ったことは申し訳ないと思っている。本当にごめんなさい。でも、お金は払えないよ」
 僕がそう言うと、彼女は僕をまじまじと見た。

「なんで、私を撮ったの?」
 彼女が僕に顔を近付けた。彼女の顔が僕の視界いっぱいになる。
「だ、だって、あまりにも、綺麗だったから・・・」
 
 僕はついそんなことを口走っていた。
 やかんに入った水が沸騰された状態で放置され、白い蒸気がぴゅーと吹き出るように、僕の耳からも蒸気がでるような気がした。たぶん、今、僕の頬や耳は最大級に赤いことだろう。

 彼女の顔をそっと見ると、彼女は不敵な笑みを浮かべている。
「ふーん。そうなんだ」と何度も繰り返して言う。その彼女の表情と言葉に、僕は一目散にその場を離れたい衝動に陥った。

 彼女はくるっと僕に背を向けた。それから、顔だけこちらに向ける。

「私の名前は、朝倉志保。君って呼ばないでよ」

 そう言って、彼女は走っていった。


 僕はその後ろ姿をただ黙って見送った。
 シャッターチャンスを逃したのは、それが初めてだった。


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