茜色の約束
第2章 君と過ごす日々
彼女は
「ねえ、いつもここで撮っているの?」
今日も志保はそこにいた。昨日と同様に、僕を見つけると、すたすたとプラットホームに入ってきたのだ。
それから、僕の横に並んだ。
「そうだよ」
僕がそう返事をすると、彼女は「ふーん」と言った。
どうやら、志保の返事は「ふーん」らしい。
興味を持って質問したはずなのに、「ふーん」と適当な返事をされるのはこちらとしても愉快ではない。それとも、興味など最初からなく、ただの暇つぶしの質問なのだろうか。
「昨日、そのカメラが大事だって言っていたけど、どうして?」
志保は僕のカメラを指差した。
「え、教えなきゃなの?」
「なに?教えたくないの?」
志保には目力がある。志保に睨まれると、どうしても怯んでしまう。
「祖父の形見で・・」
「形見?」
「うん。三年前に死んだからさ」
「そっか」
志保はそこで初めて「ふーん」以外の返事をした。
「それじゃあ、売れないね」
「うん。売れない」
僕がそう言うと、志保は口を閉じた。
静かな時間が過ぎた。
片田舎の駅なので、電車もなかなか来ない。
いつもなら、僕はこの時間写真を撮っているので、早く時が過ぎるのだが、今日はゆっくりと過ぎた。
というのも、僕は彼女の手前、恥ずかしくて写真を撮れずにいたからだ。
「撮らないの?」
彼女は僕のカメラを見ていた。
「ああ、ちょっと」
僕は曖昧な返事をする。「君がいるから撮れない」など、口が裂けても言えない。
志保は「ふーん」と言って、僕のカメラから視線を外した。
「あ、そういえば」
志保の視線は、今度は僕に向けられていた。
「あなたの名前、聞くの忘れてた」
そういえばそうだった。僕は僕の名前をまだ名乗っていない。
「僕の名前は本庭実だよ」
「ほんば、みのる?」
「うん。本当の本に、庭でほんばって呼ぶんだ。珍しいよね。で、実は果実の実だよ」
僕は空中に文字を書く素振りをした。志保は僕の動く指を目で追っている。
僕は笑って志保を見た。すると志保は、僕の顔を真っ直ぐに見た。
僕の視線と、志保の視線を描くことができたならば、きっと直線だろう。
志保の澄んだ瞳に僕の姿がはっきりと映っていた。
「実」
志保は、真顔で僕の名を呼んだ。
「はい」
僕は短く返事をした。
「良い名前ね」
志保は微笑む。
「ありがとう」
僕の中に、ふわりと温かい風が吹いた。その風は、僕の一部一部を少しずつ温めてゆく。
その風が僕の胸の奥の少し左にあるポンプにたどり着き、そのポンプが全身へ風を送る。
茜色の空を仰ぐ志保を美しいと思った。
「お金を払って」という志保は、美しいと思えなかった。
けれど、今、僕は志保を美しいと思っている。
十七年間生きてきて、こんなに美しい人に出会ったことはないと断言できるほどだ。
僕らは様々なことを話した。
といっても、いつも志保が質問するのだ。僕はそれに応える。志保はその度に「ふーん」と言った。いつのまにか、彼女の「ふーん」が心地よかった。
志保は僕と同じ十七歳で、高校二年生だった。市内の女子校につい一週間ほど前に転入して来たらしい。同じ駅を利用していたはずなのに、志保を見たことがなかったのはそのせいだと納得ができた。
志保は「早く新しい制服を着たいわ」と口を尖らせていた。
僕はそこでようやく、彼女の制服が前の学校のものだったと理解した。僕はファッションに疎かった。自分のファッションに疎いので、もちろん他人のファッションにも疎い。他校の制服がどんなものか気にも止めたことはなかった。
志保曰く、今着ている制服だと、学校内で浮くらしい。「みんなじろじろ私を見るの」と、志保は言った。その
原因は制服だけではないのではないか、と僕は心の中で密かに思った。
「どこから来たの?」
僕は、そこでようやく僕から志保に訊ねた。
志保は気まずそうな表情を浮かべた。
「ここからもっと遠くのところから」
そう言うと、志保は口を閉じた。
あまり触れたくない話題なのか、志保は眉をひそめ、そしてすぐに話題を変えた。
「そういえば、私の写真どうするの?」
志保は僕の顔を覗き込んだ。
本当に「そういえば」だ。すっかり忘れていたことだった。
「現像して、君にあげるよ」
「あ、また君って言ったわ」
「ごめん。志保だったね」
「よろしい」
志保はふふっと笑った。
「私にくれるの?」
「うん。あげる」
「やった。実が撮った写真を見たいと思っていたところなの」
志保がさりげなく実と言ったことに、僕は全身がむずがゆくなった。
心がどこかふわふわ浮いている気がする。心に羽みたいなものが生えたようだ。どうしてなのだろう。
「じゃあ、私、今日のところはもう帰るわね」
志保のその言葉に僕はつい「もう帰るの?」と言ってしまった。
「だって実、私がいたら写真撮れないんでしょう?」
たしかに、そうなのだ。志保の前で撮るのは、何故だか恥ずかしい。
「ほら、早くしないと、太陽が隠れちゃうわ」
志保が伸ばした手の先には、山に隠れようとしている太陽があった。太陽の周りには雲が散らばって浮かんでいる。絶好のシャッターチャンスだった。
「写真、楽しみにしてるから」
志保は僕にそう言うと、背を向けて歩き出した。