茜色の約束

彼女の手



「自転車通学だったの?」


 隣で志保は大きく目を開いた。
 
 僕は頷く。
 そう、僕は自転車通学をしている。
 正式に言うと、家から駅までの道のりを自転車で通学し、駅から学校の道のりは電車を利用している。
 家から駅まで、自転車を利用すると、十分ほどで到着できることに魅力を感じた。ちなみに歩くと、三十分はかかるが、歩けない距離でもないのは事実だ。

 今日は空を撮る気分でもなかったので、僕は家に帰ることにした。

「実のお父さんとお母さんってどんな人?」

 僕の隣を歩く志保が突然、そんなことを言った。
「どうして?」
「気になるもの。実はどんな人から生まれてきたのかなって」
 そう言って、志保は笑みを浮かべるものだから、僕は言わざるを得ない。



 父さんと母さんはいつまで経っても、子どもができなくて、そしてようやく生まれた子どもが僕だった。
 高齢出産だったせいか、僕は未熟児だった。しばらくは、哺乳器の中で懸命に呼吸をしていたらしい。

 なんとか生き延びたけれど、僕の体は弱く脆かった。
 今はそこまではないけれど、全力で走ったりすると、胸が苦しくなった。よく熱を出して、寝込みもした。
 
 父さんと母さんは、いつだって僕ときちんと向き合ってくれた。
 大切にしてくれた。
 彼らなりに真剣に僕を育ててくれたんだ。

 同年代の友達の両親より、年上かもしれないけれど、僕はそんなの気にしない。
 だって、父さんと母さんは僕の誇りだから。


 そのように説明して、僕は少し恥ずかしくなった。
 つい熱く語りすぎた。おそるおそる志保を見る。すると、志保は真っ直ぐ僕を見ていた。

「ふーん」
 そう口にして、にこりと笑う。志保の大きい目が、細くなる。

 それから、静かな時間が過ぎた。僕の自転車のタイヤがくるくる回る音が響く。


 僕の見える景色に海が映し出されたとき、志保が防波堤の上の細い部分に登った。
 志保はアスファルトでできたその部分をゆっくりと歩く。
 僕には、足を滑らせて落ちないようにするために見えた。

 僕もその隣を、志保と同じようにゆっくりと歩いた。


 僕の足元に僕の影が揺れる。志保の足元を見ると、志保の影も揺れている。

 ゆらゆら ゆらゆら。

 僕と志保の影が、僕らが歩くたびに揺れる。


 それが面白くて、二つの影を見つめていた。

 すると、僕でない影から何かが勢いよく伸びた。
 あれは手だ。
 
 慌てて横を歩く志保を見る。すると、志保が両手を広げ、バランスを取ろうとしている。
 
 あぶない!そう思ったとき、僕の体は動いていた。
 

 ガシャンっと倒れる音がする。僕の自転車が鳴らす音。


 僕は咄嗟に志保の手を握り締めていた。
 そのおかげか、志保は落ちずにいる。
 良かったと安心しながら、上を見上げると、志保が目を丸くさせて僕を見ている。

「志保・・・?」

 僕は志保の顔を覗くようにして、志保の名を呼んだ。

 すると、志保は我に返ったのか、はっとしたような表情を浮べた。
「あ、ありがとう・・」
 唇を尖らせながら、もごもごとそんな台詞を口にする。
「いえいえ」
 僕が返事をしていると、志保は僕の手をぱっと離した。

 手を離されるまで、僕は志保の手を掴んでいたことを、すっかり忘れていた。
 少しだけ寂しい気持ちがやって来る。

 僕がその場で動かずにいると、志保は僕を無視して、歩き出した。

 慌てて、志保を追う。志保は顔をこちらに向けようとしない。
 僕の方を見ようとしないのだ。

 僕は初めこそ、志保の顔を見ようとあれこれしたが、途中で諦め、前を見る。


 しばらく歩き、志保がポツリと言った。

「今度の休み、実の好きな場所に連れてって」

「え?」
 僕が聞き返すと、志保は思い切り、僕を睨んだ。
「一回しか言わないからね」
「は、はい」
「今週の土曜日、午前十時。いつもの駅で」
 早口でそう言うと、志保は僕に背中を向け、走って行った。

 その背中を僕はいつまでも眺める。

 志保の手、小さくて、白くて、柔らかだったな、とふと思い出す。


 その瞬間、ドクンと心臓がなった。全身に熱を帯びるのを感じた。





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