伯爵令妹の恋は憂鬱


 トマスはマルティナを部屋に送ったあと、そのまま部屋には戻らず、執事のもとを訪れた。

「なにか手伝うことはありますか?」

マルティナに付き従ってきたとはいえ、トマスは使用人だ。それを忘れたことは一度もない。
実際、ここに来てからもトマスだけは客扱いを受けてはいない。与えられた部屋も、物置として使っている部屋に簡素なベッドを運び込んで準備したようだった。


「ああ。馬の手入れをお願いできるか? ここには馬丁がひとりしかにいないんだ。今日来た馬四頭の世話は手に余っているだろう」

「わかりました」


トマスの両親はベルンシュタイン伯爵家に仕える使用人だ。ずっと住み込みで働いていて、そのためトマスもほぼベルンシュタイン家で生活していた。トマスにとっては使用人であることがスタンダードなのだ。

エミーリアの兄であるギュンターがやんちゃ盛りになると、目付け役として一緒に遊ばされることが多くなった。恩恵として、トマスはギュンターが学ぶのに同席させてもらい、それなりの学問を積むことができた。面倒を見る相手がギュンターからエミーリアに変わってからもそれは同じだ。

本音を言えば、エミーリアにほのかな恋心を抱いたことはある。しかし、生粋の使用人であるトマスにとって彼女はあくまでも主人なのだ。彼女が自ら恋しい人を見つけたとき、トマスは手を離すことを選択した。
エミーリアが幸せになるのが一番で、自分の気持ちを押し通したいとまでは思わなかったのだ。

今では、彼女との間にあるのは、兄妹に似た感情でしかない。

(……それはいいんだけど)

トマスは厩舎まで小走りで進み、てんてこまいになっている馬丁に手伝いを申し出た。
彼曰く、先ほどまで乗ってきた馬車の御者がいて、その間馬はおとなしかったのに、彼が食事のために姿を消した途端に言うことを聞かなくなったのだという。
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