焔の指先、涙の理由

 *

女王の飛車が邪魔なので蹴飛ばすと、彼女はあっさり飛車を引いた。
けれど、その位置はわたしが読んでいた位置よりひとつ上。

不気味だ。
ひと目では意図がわからない。
それでも飛車がいなくなったので、わたしは元気よく桂馬を跳ねる。

しかし手が進んでみると、わたしなど女王の手のひらの上で踊っていたに過ぎないとわかってきた。
跳ねさせられた桂馬。
取らされた金。
気づいたときにはさっき引いた女王の飛車が、わたしの攻めの手を潰していた。

三井女王が長考に入った。
軽く唇に指をあてて悩む仕草は楽しげで、さながらショーケースの中のアクセサリーを選んでいるように思える。
わたしの方は、読んでも読んでも負ける手順しか見えない。

それでもわたしは下唇を噛んで耐えた。
泣き言を口にするたび、星は指先を駒に乗せて言ったから。

『勝つぞ。絶対に』

焔は消えても、あの人はいつでもどこかに、ロウソクが消えたあとに立ち上る白い煙のような、そんな何かを宿している人なのだ。

悩んだ末、女王は角を攻めてきた。
不本意だが逃げると防戦一方でボロボロに負けるので、奥歯を噛んで角を交換し桂馬を跳ねた。

緻密な計算なんてなかった。
満身創痍で剣をふるっていたら、いつの間にか悪くない位置に立っていただけ。
もしかしたら評価値ではまだ負けているかもしれないが、いま風は少しだけわたしの背を押している。

お茶を含むと、つめたいほどに冷めていた。

「三十秒ー……残り五分です」

秒読みに押されるように、わたしは両目をつぶる気持ちで駒を進める。
▲7四歩
どうせどの手も怖いのだから、いちばん怖い手を選んでやろうと思った。
無謀だと星は怒るかもしれない。
けれど、正否のわからない勝負を仕掛けなければ、この人は揺らいでくれない。

指先に女王の視線を感じた。
しばらくわたしが指した歩を見つめ、パタン、パタンと扇子を弄ぶ。
それから視線をはずすと扇子を置き香車を取った。
ここで香交換すると思っていなかったので、また読み直しを迫られる。

「相馬女流二段、持ち時間を使いきりましたので、ここから一手四十秒で指してください」

わからないなら信じた手を指すしかない。
▲5四香
空気が変わったのを感じた。
この手は女王の玉を追い詰めたのか、それとも自分の玉を危険にさらしたのか。
わたしには読み切れていなかったが、女王にも読み切れていないらしい。
先程までは確かにあった余裕が、彼女からはもう感じられない。
一心に読みを入れる集中力が、風圧のように盤の向こうから迫ってきた。

もし合駒されても、歩で追撃するつもりだった。
相手もそれは読んでいる。
だったらどこに逃げるのか。
女王の扇子を触るリズムが忙しなくなった。

女王が桂馬を盾に逃れようとするところを、わたしはすかさず追撃した。
隙はほんの一瞬。
相手に手番を渡したら負ける。
間違えたら負ける。
ぬるい手を指したら負ける。
正解は蜘蛛の糸のように細く頼りない。

わたしが歩を成る。
女王が逃げる。
銀を打つ。
玉で取られる。
角を打つ。
玉が逃げる。
銀を成る。
玉で取られる。
金を打つ。
玉が逃げる。

気を抜くと指先がふるえそうで、必死に力を込めていた。

『勝つぞ。絶対』

銀を成る。
飛車で取られる。
その飛車を角で取る。
角を取られる。

バタリと放り投げるように三井女王は扇子を置いて、大きく嘆息する。

ふるえる手で触れた桂馬はぬくもっているような気がした。
焔とともに、わたしはその桂馬を女王の玉目掛けてピシリと跳ねた。


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