焔の指先、涙の理由
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その少年にはじめて会ったのは、わたしが高校二年生のときだった。
将棋会館までの道すがら、神社の境内にピンクいろのつつじが咲いていた。
空のいろも風の匂いも甘みを増す季節に、わたしは女流棋士の育成機関である『研修会』に入会した。
「こんにちは。わたし、今日がはじめてなんだけど、ここで待ってていいんだよね?」
古い廊下にたたずむヤツは、春の陽に細い髪の毛をさらしながら、喧騒さえ凍てつかせるような静けさで詰将棋を解いていた。
研修会は、プロ棋士養成機関である『奨励会』の下部組織でもあり、奨励会入りを目指す少年少女も在籍している。
ヤツもそのひとりだった。
「落ち着いてるね。緊張しない?」
横目でわたしを確認したヤツは、そのまますっと視線を本にもどした。
照れるお年頃だと思い、わたしは笑みをこぼす。
「クラスはどこ?」
「…………」
「何歳から将棋始めたの?」
「…………」
「居飛車党? 振り飛車党?」
「…………」
「何年生?」
わたしがあきらめないので、不承不承ヤツは返事をした。
「………………四年」
返答はぶっきらぼうだったが、答えがあることに満足して、わたしは笑みを深めた。
「そっか。お互いにがんばろうね!」
緊張はしていたけれど、女流棋士への一歩を踏み出したのだと浮かれる気持ちが強く、足取りは軽かった。
ヤツはそれも気に入らなかったのだと思う。
どういう巡り合わせなのか、最初に盤を挟んだのがヤツだった。
そこではじめて『並木星』という名前を知る。
「よろしく、並木くん」
少し大きい長袖Tシャツの、折られた袖から伸びた手はあどけなかった。
駒の持ち方は立派だけれど、そもそも指が短いからいまいち様になっていない。
けれども物怖じすることなく駒を並べる姿がかわいらしく思えた。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ところが短い指で指す将棋は、わたしの数段先を行くものだった。
読みの速さ、正確性、センス、知識量、すべてで圧倒される。
何より、爪さえ小さなその指先には、濃度の高い焔が宿っていた。
「……負けました」
おまえはいったい何をしにここにきたのだ、と頬を殴られるような将棋だった。
真剣勝負とはいえ、子どもだからか、もともとの性格なのか、情け容赦なく攻め倒された。
「この飛車をひく位置、頭わるすぎだとおもいます」
一応年上に敬意を払うことは知っていたようで、ですます調は使っていたけれど、対局を振り返る感想戦でもボロクソに言われた。
返す言葉はなかった。
その日は悔しくて悔しくて、駅のトイレで個室をひとつ占領して泣いた。
もっと悔しいことを白状するなら、あの敗北がなければわたしはぬるい覚悟のまま時を浪費して、女流棋士にはなれなかっただろう。
自分のことを棚に上げて言わせてもらえば、プロの入り口にさえ立っていない下っ端の分際で、不遜なクソガキだった。
いま目の前に現役の名人が座っていたって、絶対に勝つのは自分だ、という闘志だけは本物。
ヤツは出会った時から、すでに“棋士”だった。
研修会でヤツと指したのはその一局だけ。
というのも、ヤツはあっという間にクラスを上げ、奨励会に入ったからだ。
わたしが一進一退をくり返している間に、プロへの道を歩み始めていた。