焔の指先、涙の理由
「……最悪ですね」
研究会が始まって、わたしはここでも最初にヤツと盤を挟んだ。
「わたしだって知らずに連れて来られたの」
もう袖など折っていない奨励会三段は、こちらの言い分だけ無視して駒を並べる。
その手つきは以前と比べ物にならないほど洗練されていた。
指がとても長くなっていて、短く切りそろえられた大きな爪にも健康的な艶がある。
そのまっすぐ伸びた指先でいとおしむようにふわりと王将を持ち上げ、一瞬で持ち変えたあと、焔を灯して盤上に落とす。
「……早く」
駒を並べるだけなのに何をぼんやりしているのだと、いつしかかけるようになっていたメガネの奥から、呆れた視線が飛んでくる。
気配が、熱が、重い。
ヤツは、幼い頃でさえ厳しい指し手を向けてきていたけれど、盤から顔を上げれば、見た目には普通の少年だった。
いま、むわっとけぶる熱気の中には、確かに男の匂いがした。
変わらないのは、ボロクソに負かされたことと、これまたボロクソなですます調の感想戦。
これまで順調だったのか挫折を経験したのか知らないけれど、プロ棋士まであと一歩に迫った三段の力は本物で、指先の焔はさらに濃度を増していた。
冷静になってみると至極当然の手でも、そのきらめきに眩んで思考が止まる。
はじめてのときより、もっと苛烈に攻め潰された。
「そもそも、金をこちら側に上がるのは千日手になりやすい。先手番でそれは消極的過ぎます。やる気あるんですか?」
「でも評価値(AIによる形勢判断を数値で表したもの)的にはあまり差がないから、研究をはずした方が勝機があるかと思って」
「本当に勝算があればそれでいいですけど、あんたはいつもそうやって……」
睫毛を跳ね上げるようにしてヤツを見ると、音がするほどハッキリと目が合った。
「『いつも』って何?」
「…………」
「もしかして、わたしの将棋、見ててくれたの?」
「とにかく、あまりに勉強不足です。何しにここにいるんですか? 迷惑です」
失言を握り潰すがごとくヤツの言葉はきつくなった。
正論なのでわたしは黙るしかない。
すっかり心が砕けたわたしは、他の人と指した残り二局もボロボロで、感想戦は慰められるだけだった。
そんなわたしをヤツは、
「みんな研究しに来ているのであって、あんたのお守りをしに来たわけじゃないんですよ」
と冷たく斬って捨てた。
とりなしてくれる先輩棋士にあいまいな笑顔を返して、わたしは窓の外に目を向ける。
時刻は十六時を回っていても日はまだ十分に高く、ひろがる緑は命を燃やすように力強い。
つややかな葉の上で、夏の日差しが光の珠をつくっていた。
まるで剣舞を見ているようだと思った。
ヤツの指し手は磨き抜かれた刀身めいて、ピタリ、ピタリと急所を狙う。
ずっと劣勢かに思えても、相手の歩みが遅くなったと見るや、一気にギアを入れ換えて猛烈に攻め切る。
たくさん傷を負いながらも、あざやかに首級を上げるような将棋だった。
絵画に魅せられるように、音楽に酔いしれるように、将棋に恋をすることもあるらしい。
窓から見える夏のきらめきに、わたしはヤツの指先を重ねていた。