焔の指先、涙の理由
盤上に涙が落ちる。
負けても、罵倒されても、振られてもヤツの前では泣かなかったのに、もう抑えることはできなかった。
伝ってきた鼻水を指の背で押さえて、わたしはようやく口を開いた。

「わたしと付き合って」

「……は?」とヤツ以外の誰かが口にした。
ヤツ自身はしずかにわたしを見つめ、わたしも涙越しに見つめ返す。
もう戦うのはやめたの? という言葉は嗚咽とともに飲み込んだ。
その分ポロポロ落ちる涙は、ゲームに負けて泣く子どものようでも、気を引こうとする女のようでもあって、客観的に見たら吐き気がするほどきらいだ。

でもそれでいい。
涙の本当の理由は知らなくていい。
負けて泣くような、おろかで卑怯な女だと、軽蔑されても構わない。

「わたしと付き合って! じゃないと、来週竜王戦の聞き手するとき、生中継で名指しして告白してやるから!」

「公私混同? あんたって本当に最悪だな」

「わたしと付き合ってよ! お守りしてよ! ずっとそばにいてよーーーーっ!」

テーブルに手を叩きつけたら、押さえていた鼻水が途中まで垂れ下がってきた。
ひとり落ち着いていたヤツも、このときばかりは焦ってティッシュをわたしの鼻にあてる。

「わかったよ。付き合う。付き合うから。だから鼻水は拭けって」

「弱い人はきらいなくせに?」

「強くなればいいだろ」

もう一枚ティッシュをとって、わたしの涙に押しつける。

「付き合うから、強くなれ」

なぜわたしが棋界に身を置き、わたしよりずっと強いヤツがアマチュアなのか。
それはわたしが女であるからに他ならない。
女流棋士は女しかなれない。
男にその選択肢はない。

わたしなりに努力して掴み取ったいまの立場に誇りは持っているけれど、女ゆえに開かれた門戸なのだという自覚もある。

わたしが男なら棋界にはいられなかった。
わたしが男ならヤツに恋したりしなかった。
だけどわたしは女なのだ。

強くなりたい。
そばにいたい。
立ち止まってしまったなら、わたしがその手を引けるくらいに。







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