この世界にきみさえいれば、それでよかった。
「……っ」
私は胃液が上がってきて、自転車の駐輪場の隅に座り込む。
「はは、変わってねーなお前。そうやって吐き癖もあったよな」
癖じゃない。これも痛覚と同じ。
脳が匂いや情景を細かく覚えているから、込み上げてくるあの部屋の空気や時計の針の音や、男の様子を気にしながら一挙一動に怯えていた自分がすぐにこうして顔を出す。
「俺がいじめてるみたいに思われるだろ?」
通行人を気にしながら、背後で男が近づいてくる足音が響く。
逃げなきゃ。でも身体が動かない。
「背中ぐらい擦ってやるよ。俺はお前の父親だからな」と、男の手が私の背中に触れてビクッと肩が震え上がる。
「イヤ……ッ!」
勢いよく払った手は男の顔へと当たって、さっきまで機嫌のよかった顔がみるみる変わっていく。
そう、この顔。眉間にシワを寄せて、鋭くてナイフみたいな目つきをする。
「てめえ」
そして興奮気味に瞳孔を開かせたあと、高圧的な声を出して、私を容赦なく殴るのだ。
私は恐怖で目を瞑った。
またあの硬い拳が上から降ってくる。
「おい、なにしてんだよっ!」
と、その瞬間。振りかざした男の手がピタリと止まった。
ギロリと今まで見たことがないぐらい怖い顔をして、男の腕の形が変わるぐらい強く握っていたのは――ヒロだった。