記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
挿話 数年前の出来事
 華怜という少女は誰からも好かれる人間で、同時に誰に対しても分け隔てなく好意を振りまく人だった。
 鈍感な部分があるかと思えば、妙に鋭い部分も持ち合わせている。
 人の好意の感情には特に敏感に反応して、なんとなく「この人は私のことを好きなんだ」ということがわかる人間だ。それは他人が他の誰かに向けている感情にも同じく作用して、八割ほどの確率で的中させている。
 そして心を許した人間には過度に甘えて、独占欲の強い人間である。とはいえ同年代、あるいは同じぐらいの歳の男性に心を許したことは一度も無い。そのせいか、中学時代・高校二年までの交際経験は皆無だった。
 ならば誰に対して心を許したのかというと、それは自分を産んでくれた両親に対してだ。幼い頃から熱い愛情を注がれて生きてきた華怜は、同じぐらい両親に甘えていた。
『甘えていた』といっても、自分のことは自分でこなすタイプの人間である。
 向上心があるため、興味を持ったことに対してはとことん関心を示す。
 料理が上達したのも、お母さんの姿を見て、教えてもらっていたからだ。
 普段は名前の通り可憐に可愛く振る舞うが、しかし心を許した人間に対しては無防備な一面を見せる。
 たとえば鼻先に金箔を付けたり、みたらしを口元にぺたりと付けたりする。
 寄り添って眠ることが出来るのは、公生を信頼して心を許しているからであって、誰に対しても行うというわけでは決してない。
 そんな華怜には、歳の少し離れた幼馴染がいた。その子とは家族ぐるみの付き合いをしていて、気付いた時にはいつの間にか仲良くなっていた。
 とはいえ両親ほど心を許したりすることはせずに、強いていうならば「お兄ちゃん」という位置付けにとどまっている。
 これは華怜が昔、五歳の春頃に体験した出来事だ。
 その時期はちょうど桜が満開で、華怜と華怜の両親、幼馴染と幼馴染の母親とでお花見に来ていた。
 最初はバスに揺られながら沈んだ表情を浮かべていたが、城下町付近へやってきた頃には移りゆく景色を嬉しそうに眺めている。
「コウちゃんコウちゃん」
 隣に座っているコウちゃんと呼ばれた内気そうな幼馴染は、少し照れた面持ちでカレンの方を見た。
「どうしたの?」
「ピンクピンク! ピンクばかりだよ!」
「さくらっていうんだよ」
「さくら? へー!」
 城下町周辺はそこかしこの道端に桜の木が植えられていて、よく花見に来る客で賑わっている。
「ねえ、カレン」
「どうしたの?」
 チラと窓の外へ向けていた視線をコウちゃんへと戻す。
 目があって、しかしすぐにそらされた。
 彼女は首をかしげるも、なんとなくその意味は理解できていた。
 つまるところ、コウちゃんは私のことが好きなのだ、と。妙なところで鋭いカレンは、そういうことが直感的にわかっていた。
「バスの中はしずかにしないと……」
 つり革を持ちながら立っていたお母さんも、微笑みながら口元に人差し指を近づける。コウちゃんに注意されたならまだしも、大好きなお母さんに注意を促されたら、口を閉じずにはいられない。
 静かにカレンが外の景色を眺めていると、コウちゃんはホッと胸を撫で下ろした。

※※※※

「すっごい! きんぴかだよ! きんぴか!」
 カレンの指をさした先にはソフトクリームを販売している甘味処がある。そのソフトクリームには、この土地の有名な工芸品である金箔が乗せられていた。
「すごい、きんぴかだね」
「きんぴかっ! きんぴかっ!」
 年相応にカレンがはしゃいでいて、目立つことが苦手なコウちゃんもその金色に思わず目を輝かせている。
 カレンは背の大きなお父さんの足元にしがみついて、おねだりを始めた。
「おとーさんおとーさん、カレンあれがたべたい!」
「さっきお昼ご飯食べたばかりだろ?」
「でもおなかすいたの!」
 そのあどけない笑顔を見せられると、誰でも仕方がないなぁと思ってしまう。結局お父さんはカレンとコウちゃんのためにソフトクリームを買ってあげた。
 近くにちょうどいい緑地の広場があるため、そこのベンチへ腰掛ける。この広場の中心には現代美術を展示した円形の美術館が立てられている。この建物を見に、よく県外から足を運ぶ観光客も多い。
しかしカレンは美術館に興味はないのか、キラキラ光る金箔に目を輝かせていた。
「きらきら! きらきら!」
 そんなカレンのことを横目で盗み見るコウちゃんは、心の内側に熱いものを秘めている。
 その気持ちに気付いているコウちゃんの母親は、隣で「アタックしてみなよ」と合図を送っているが、恥ずかしがって首を振るばかり。
 そうしている間にカレンは金箔ソフトクリームにかぶりついて、幸せな表情を浮かべた。だけどすぐに、釈然としないといった表情に切り替わる。
「これ、あじがぜんぜんしないよ?」
「金箔はそういうものなのよ」と、これはカレンのお母さんが答えた。
 お母さんはカレンの鼻先を見てクスクスと微笑んでいる。
 コウちゃんはずっとカレンのことを見ていたため、もちろんそれに気がついていた。
 それを拭いてあげて、頼りになる男の子だとアピールするべきなのに、モジモジと体を左右に動かしたまま動き出さない。
 そうこうしているうちに、お父さんがそれに気付いてしまった。
「華怜、鼻に金箔が付いてるよ」
「えっ?」
 ゴシゴシと鼻先をこするけれど、それは金粉となって広がるだけ。仕方ないといった風に、お父さんは微笑みながらハンカチで鼻先を拭いてあげた。
「くすぐったい!」
「ちょっとだけ我慢しててね」
 大きな手で、カレンが動かないように頭を固定する。ゴシゴシ拭ってあげると、それはすぐに取れた。
「よしっ、これでもういいよ」
「ありがとー! だいすきっ!」
 そう言ってカレンはお父さんに抱きつく。それを受け止めて、よしよしと頭を撫でてあげた。
 コウちゃんはといえば、そんな二人を見て気分を沈めていた。僕もカレンのお父さんのようにしてあげれば、あんな風に抱きついてくれたのかも、と考えているのだろう。
 いやいや絶対にそうはならないと思ったのか、すぐにかぶりを振った。コウちゃんは、カレンの大切な誰かにはなれていないのだ。
 また、ある時の春。
 あのお花見からちょうど一年後ぐらいの春のことを、夢の中の華怜は思い出していた。
 あの時も同じメンバーで集まって、家の近くの公園へ遊びに来ていた。その一番の目的は、タイムカプセルを埋めるため。
 それは華怜のお母さんが提案したことで、思いで作りの一環だった。
 ちょうどコウちゃんが家庭の事情で引っ越すことになったため、またいつかここで集まれるようにという思いを込めたのだと華怜は聞いている。
 華怜とコウちゃんは、砂場で小さなお城を作っていた。
 数年付き添った相手が引っ越すというのは華怜もそれなりに寂しいようで、どこか浮かない顔をしている。コウちゃんも、先ほどからずっと口をつぐんでいた。
 だけど意を決したのか、ようやく口を開く。それは積み上げていた砂にトンネルを開通させる作業をしていた頃だった。
「カレンは、おてがみになんて書いたの……?」
 お母さんからは、未来の自分へ宛てた手紙を書きなさいと言われている。
 カレンは頬を染めながら「ないしょっ!」と恥ずかし気にそっぽを向いた。
「いじわるしないで、おしえてよ……」
 コウちゃんの方が年上だというのに、若干涙目を浮かべていた。それでもカレンは教えたくないのか、口を真一文字に引き結ぶ。
 もう手紙は大瓶の中に入れられていて、それは向こうの憩いの場で談笑している大人たちが管理している。
 お父さんたちはきっと、別れを惜しんでいるのだろうとカレンは思った。今すぐあそこに入れた手紙を入れ替えたい。
 恥ずかしいことを書いてしまったから。
 でもあそこに書いたことはまぎれもない本心で、嘘偽りのない少女の本音だった。
 顔が熱くなる。
 だけどそれにジッと耐えて、ようやくトンネルは開通する。コウちゃんとカレンの手がピタリと触れ合った。コウちゃんはピクッと身体を震わせて、思わず手を引っ込める。
「あ、あのカレン……!」
「うわっ、どうしたの?」
 突然の大声でビックリしたのか、カレンは目を丸めた。それも構わずに、コウちゃんは話を続ける。
「じ、じつは、ひっこしする前に伝えたいことがあって……!」
「つたえたいこと?」
「じっじつは……」
 コウちゃんが緊張していると分かったカレンは、ニコリと笑顔を浮かべた。
「おちついておちついて。しんこきゅうしなよ」
「あ、うん……」
 深呼吸をして落ち着いたコウちゃんは、おそらく気付いてしまったのだろう。
 ここで本当の気持ちを伝えてしまったら、一緒にいられなくなるかもしれない。
 もしかすると拒絶されて、将来ここに集まることができなくなるのかもしれない。
 それを一度でも考えてしまったコウちゃんの言葉は、喉の奥に引っ込んでしまった。
「どうしたの?」とカレンは純粋な瞳で訊ねる。
「ううん、なんでもない……」
「そう?」
 それからカレンは物憂げな表情を浮かべて「やっぱり、さびしくなるね」と言った。
 結局誰の想いも伝わらないまま、そのタイムカプセルは桜の木の下へ埋められた。
 そしてそれから数年の時は流れて……

五月二十日。
 華怜を乗せた日本航空機は、山の斜面へと墜落した――

※※※※

 そうだ、私はあの飛行機に乗っていたんだ。
 その全てを思い出して、私は悟った。
 どうして私が公生さんの前に現れたのか。
 これはきっと、最後に与えられたチャンスだった。だけどそのせっかくのチャンスを、私は記憶喪失という形で無駄にしてしまった。
 それだけならまだしも、私は致命的なまでに大きなミスを犯してしまっている。
 取り返しのつかないかもしれない、大きなミス。それに気が付いてしまった私は、急に背筋に寒気を覚えて、地に足がついていないのではないかという錯覚に陥った。
 本当なら、こんなはずじゃなかった。
 後悔をしたって、もう遅い。私はどうしようもないぐらい公生さんのことが好きで、愛していて、その思いを伝えてしまっているのだから。こんな純粋な思いは、伝えるべきじゃなかった。
 私はただひたすら、ごめんなさいと心の中で謝り続けた……
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