記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
2.同棲生活
床に散らかっている本を一箇所へ移動させて、華怜に座布団を勧めた。
最初は戸惑いのためか頭上にはてなマークが浮かんでいたけれど、やがてすぐに納得したのかその上へと腰を下ろす。
彼女はせわしなく、キョロキョロと辺りを見渡している。
「ごめんね、汚い部屋で」
「あ、いえ……」
本は散乱しているし、大学のレポートはそこかしこに散らばっている。六畳一間だからそれだけで部屋は圧迫されて、よくこんな部屋に女の子を招けたなと自分でも思った。
氷を袋に入れてタオルで巻いたものを華怜へと渡し、ついでに二人ぶんのお茶を入れてから僕も座布団へ腰を下ろす。
華怜は渡したタオルを、すぐにコブができている場所へ当てた。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、目に涙をためている。
「まだ痛む？」
「い、いえ……」
「無理しなくてもいいよ。無理やり病院へ連れていったりはしないから」
「痛い……です」
少しは素直になってくれたのか、それからは痛みを隠そうとはしなくなった。しっかりとタオルを後頭部に当てて、ぶつけた場所を冷やしている。まだ痛いということは、相当強く頭を打ったのだろう。
「頭痛とかめまいとかはない？」
首を横に振った。
「何か思い出したことは？」
再び横に振る。ある程度予想はしていたが、一時的なものではないらしい。僕は専門家じゃないから、それ以上のことはわからない。
やっぱり警察へ届けた方がいいと思ったが、先ほどの怯えを思い出して提案できるほどの肝は座っていなかった。
だけど、一応は確認して置いた方がいいのかもしれない。
「どうして警察は行きたくないの？」
しばらくの逡巡の後、華怜は答えた。
「……今、人と関わるのが怖いんです。本当に、何も覚えていないから、自分が誰なのかを知るのも怖くて……」
その至極当たり前の気持ちを、僕はようやく理解した。
眠りから覚めた時、彼女は名前以外の一切の記憶を失っていたのだ。自分が誰なのかも分からないそんな時に、誰かもわからない他人と接するのは恐怖でしかない。
実際先輩がやってきたときも、華怜は僕へ抱きついて震えていた。
だけどその理由が妥当なものだとしても、少しわからないことがあった。
「僕は大丈夫なの？」
その問いかけだけで察したのか、華怜はすぐに答えた。
「あなたは、なぜか最初から怖くないんです」
「名前も知らないのに？」
「……実を言うと、初めて会った時からどこか不思議な気持ちになっていたんです。胸の内側が暖かくなって、この人なら信じられるかもって」
おそらく同じ気持ちを抱いているのだということを知って、いささか驚いた。僕らは本当にどこかで出会っているのかもしれない。
「小鳥遊公生だよ。大丈夫、僕は君に何かしたりしないから」
「こう、せいさん……」
忘れたりしないように、噛みしめるようにゆっくりと呟いた。初めて身内以外の女の子に名前を呼ばれて、顔が熱くなる。
もう一度「公生さん……」と呼んで、控えめに微笑んだ。初めて彼女の笑顔を見て、僕の顔はさらに熱くなった。もしかすると、危うく彼女のことを好きになってしまったのかもしれない。
いや、きっと僕はこのとき、彼女のことを好きになっていたのだろう。
単純だと思われるかもしれないが、仕方ないと思う。
お世辞なんかじゃなく、彼女は可愛い。出会った時から感じていた不思議な気持ちも、好きという感情から来ていたのかもしれない。
「あの、公生さん」
名前を呼ばれたのは三度目。
現実に戻った僕は、努めて平常を装った。「どうしたの？」と返す。
「もし、公生さんがよろしければなんですけど。しばらく私をここに泊めていただけませんか？」
最初は気持ちが高揚して、だけど僕はすぐに冷静になった。
「ダメだよ、女の子が見ず知らずの男の家に泊まるなんて」
「公生さんのことは信頼してます。先ほどはアパートの前で助けてくれましたから」
「君を連れ込むために、良い人を演じたのかもしれないよ」
「公生さんは、悪い人なんですか？」
純粋な疑問を真正面からぶつけられ、返事に詰まった。
悪い人じゃない、なんて言い切れるのだろうか。華怜に好意を抱いているのは事実だから、それは部屋へ連れ込んだ理由にもなる。下心は全くなかった、なんて言い切れない。
黙っていると、華怜は「公生さんは悪い人じゃないです。信頼してます」ともう一度言った。その目に嘘偽りはない。
出会ってたった数十分だというのに、この女の子はどうしてこんなにも信頼を寄せてくれているのか。僕には、わからなかった。
「……でも、両親は心配してるんじゃないの？」
「それなら捜索願が出されて、いずれニュースで報道されるはずです。そうなれば、自分から警察へ行きますから」
華怜の言い分は、確かに筋が通っている。女の子が失踪すれば、遅かれ早かれニュースになるだろう。
だけど、もしどこかで僕が華怜を匿っていたことが知られれば、運が悪ければ僕が逮捕されるかもしれない。たとえ彼女が違うと言っても、事情を知っていたのに警察へ届け出なかったのはまぎれもない事実。
それを華怜は分かっていないから、僕がデメリットを飲めばしばらくは一緒に居られるということだ。
僕は果たして、そうまでして彼女と一緒に居たいのだろうか。
この出会って間もない女の子と、大きなリスクを背負ってまで。
「ダメ、ですか？」
もう一度、懇願するように問いかけてくる。
どうしてか、僕はこの女の子を離してはいけない気がした。
その理由は分からない。
好意を抱いているから出てきた本能的な感情なのかもしれない。もしくは、もっと別の。
「私、あなたから離れたらダメな気がするんです。理由はよくわからないから説明出来ないですけど、なんというか、苦しいんです」
「苦しい？」
「病院へ行こうと言った時も、警察へ行こうと言った時も、胸のあたりが苦しくなったんです。私のことを思って言ってくれてるんだって分かってるんですけど……」
そして小さく「離れたくないです……」と呟いた。
この時にはもう、僕は完全に落ちていたのだろう。
何も言わずに立ち上がると、華怜は僕を見上げてくる。その瞳は不安の色に染まっていた。
「……どうしたんですか？」
「君のパジャマとか、明日着る服とか、そういうのが一つもないから買いに行こう。ずっと制服のままじゃ嫌でしょ？」
落ち込んでいた顔から一転、パッと笑顔になった。華怜には笑顔の方が似合っている。
「でも、約束して。何か身体に異常がありそうだったら、すぐに相談すること。君が何を言っても病院へ連れていくから」
「わかりました」
しっかりとその返事を聞いて、僕らは部屋を出た。
最初は戸惑いのためか頭上にはてなマークが浮かんでいたけれど、やがてすぐに納得したのかその上へと腰を下ろす。
彼女はせわしなく、キョロキョロと辺りを見渡している。
「ごめんね、汚い部屋で」
「あ、いえ……」
本は散乱しているし、大学のレポートはそこかしこに散らばっている。六畳一間だからそれだけで部屋は圧迫されて、よくこんな部屋に女の子を招けたなと自分でも思った。
氷を袋に入れてタオルで巻いたものを華怜へと渡し、ついでに二人ぶんのお茶を入れてから僕も座布団へ腰を下ろす。
華怜は渡したタオルを、すぐにコブができている場所へ当てた。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、目に涙をためている。
「まだ痛む？」
「い、いえ……」
「無理しなくてもいいよ。無理やり病院へ連れていったりはしないから」
「痛い……です」
少しは素直になってくれたのか、それからは痛みを隠そうとはしなくなった。しっかりとタオルを後頭部に当てて、ぶつけた場所を冷やしている。まだ痛いということは、相当強く頭を打ったのだろう。
「頭痛とかめまいとかはない？」
首を横に振った。
「何か思い出したことは？」
再び横に振る。ある程度予想はしていたが、一時的なものではないらしい。僕は専門家じゃないから、それ以上のことはわからない。
やっぱり警察へ届けた方がいいと思ったが、先ほどの怯えを思い出して提案できるほどの肝は座っていなかった。
だけど、一応は確認して置いた方がいいのかもしれない。
「どうして警察は行きたくないの？」
しばらくの逡巡の後、華怜は答えた。
「……今、人と関わるのが怖いんです。本当に、何も覚えていないから、自分が誰なのかを知るのも怖くて……」
その至極当たり前の気持ちを、僕はようやく理解した。
眠りから覚めた時、彼女は名前以外の一切の記憶を失っていたのだ。自分が誰なのかも分からないそんな時に、誰かもわからない他人と接するのは恐怖でしかない。
実際先輩がやってきたときも、華怜は僕へ抱きついて震えていた。
だけどその理由が妥当なものだとしても、少しわからないことがあった。
「僕は大丈夫なの？」
その問いかけだけで察したのか、華怜はすぐに答えた。
「あなたは、なぜか最初から怖くないんです」
「名前も知らないのに？」
「……実を言うと、初めて会った時からどこか不思議な気持ちになっていたんです。胸の内側が暖かくなって、この人なら信じられるかもって」
おそらく同じ気持ちを抱いているのだということを知って、いささか驚いた。僕らは本当にどこかで出会っているのかもしれない。
「小鳥遊公生だよ。大丈夫、僕は君に何かしたりしないから」
「こう、せいさん……」
忘れたりしないように、噛みしめるようにゆっくりと呟いた。初めて身内以外の女の子に名前を呼ばれて、顔が熱くなる。
もう一度「公生さん……」と呼んで、控えめに微笑んだ。初めて彼女の笑顔を見て、僕の顔はさらに熱くなった。もしかすると、危うく彼女のことを好きになってしまったのかもしれない。
いや、きっと僕はこのとき、彼女のことを好きになっていたのだろう。
単純だと思われるかもしれないが、仕方ないと思う。
お世辞なんかじゃなく、彼女は可愛い。出会った時から感じていた不思議な気持ちも、好きという感情から来ていたのかもしれない。
「あの、公生さん」
名前を呼ばれたのは三度目。
現実に戻った僕は、努めて平常を装った。「どうしたの？」と返す。
「もし、公生さんがよろしければなんですけど。しばらく私をここに泊めていただけませんか？」
最初は気持ちが高揚して、だけど僕はすぐに冷静になった。
「ダメだよ、女の子が見ず知らずの男の家に泊まるなんて」
「公生さんのことは信頼してます。先ほどはアパートの前で助けてくれましたから」
「君を連れ込むために、良い人を演じたのかもしれないよ」
「公生さんは、悪い人なんですか？」
純粋な疑問を真正面からぶつけられ、返事に詰まった。
悪い人じゃない、なんて言い切れるのだろうか。華怜に好意を抱いているのは事実だから、それは部屋へ連れ込んだ理由にもなる。下心は全くなかった、なんて言い切れない。
黙っていると、華怜は「公生さんは悪い人じゃないです。信頼してます」ともう一度言った。その目に嘘偽りはない。
出会ってたった数十分だというのに、この女の子はどうしてこんなにも信頼を寄せてくれているのか。僕には、わからなかった。
「……でも、両親は心配してるんじゃないの？」
「それなら捜索願が出されて、いずれニュースで報道されるはずです。そうなれば、自分から警察へ行きますから」
華怜の言い分は、確かに筋が通っている。女の子が失踪すれば、遅かれ早かれニュースになるだろう。
だけど、もしどこかで僕が華怜を匿っていたことが知られれば、運が悪ければ僕が逮捕されるかもしれない。たとえ彼女が違うと言っても、事情を知っていたのに警察へ届け出なかったのはまぎれもない事実。
それを華怜は分かっていないから、僕がデメリットを飲めばしばらくは一緒に居られるということだ。
僕は果たして、そうまでして彼女と一緒に居たいのだろうか。
この出会って間もない女の子と、大きなリスクを背負ってまで。
「ダメ、ですか？」
もう一度、懇願するように問いかけてくる。
どうしてか、僕はこの女の子を離してはいけない気がした。
その理由は分からない。
好意を抱いているから出てきた本能的な感情なのかもしれない。もしくは、もっと別の。
「私、あなたから離れたらダメな気がするんです。理由はよくわからないから説明出来ないですけど、なんというか、苦しいんです」
「苦しい？」
「病院へ行こうと言った時も、警察へ行こうと言った時も、胸のあたりが苦しくなったんです。私のことを思って言ってくれてるんだって分かってるんですけど……」
そして小さく「離れたくないです……」と呟いた。
この時にはもう、僕は完全に落ちていたのだろう。
何も言わずに立ち上がると、華怜は僕を見上げてくる。その瞳は不安の色に染まっていた。
「……どうしたんですか？」
「君のパジャマとか、明日着る服とか、そういうのが一つもないから買いに行こう。ずっと制服のままじゃ嫌でしょ？」
落ち込んでいた顔から一転、パッと笑顔になった。華怜には笑顔の方が似合っている。
「でも、約束して。何か身体に異常がありそうだったら、すぐに相談すること。君が何を言っても病院へ連れていくから」
「わかりました」
しっかりとその返事を聞いて、僕らは部屋を出た。
