記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
22.彼女の異変
 朝目が覚めると、抱きしめていたはずの華怜がいなくなっていた。どくんと、何故か心臓が大きく跳ねて、まどろみの状態から一気に覚醒する。
 僕は布団を半ば投げ飛ばすように起き上がり、部屋を見渡す。華怜の姿はない。
 次いで、焦る足を必死に動かして、キッチンへと向かった。そこに、華怜はいた。
 いつも通り包丁を握り、いつも通り調理をしていて、僕は心の底から安堵する。今思えば、どうしてこんなにも心が乱れたのか、わけがわからなかった。
 華怜はどこにもいったりしないのに。
「おはよ、華怜。手伝うよ」
 フライパンに油を引いて、固めの目玉焼きを作る。その動作が知らず知らずのうちに、僕の日常の中に組み込まれていた。
 華怜もいつも「しょうがないですね」なんてことを微笑みながら言って、半歩ほど左へ移動してくれる。
 今日は、そうはならなかった。
 華怜は僕の方を振り返りもせずに、ただ淡々と調理を続けている。
 無視されたというより、どうかしたのかと思い心配になった。もっとそばへ近づいて、声をかける。
「華怜?」
「公生さんは部屋で待っててください」
 ぶっきらぼうに、ほぼ無感情な声でそう言われる。それでも僕は食い下がった。
「いや、手伝うよ。二人でやったほうが早く終わるし」
「小説、書いててください」
「今日は土曜だから、時間はたっぷりあるんだよ」
「机の上のスマホ、メール来てましたよ? 茉莉華さんが、もし時間が空いていたらお茶をしたいそうです」
「メール?」
 勝手にスマホを見たことは、特にどうとも思わなかった。ロックをかけていないし、そもそも見られて困るようなものは何も入っていない。
 それに、華怜なら信用しているから。
 僕は居間へと戻りスマホを起動させて、メールフォルダを見た。確かに、嬉野さんからメールが来ている。
 しかし二通も来ていて、そのうちの一つは華怜の話した内容。もう一つは「では、駅前の喫茶店で朝の十時に。華怜ちゃんと公生さんが来るの、楽しみにしていますね♩」というものだった。
 送信フォルダを見ると、僕が「行きます」といった旨のメールを送ったことになっている。これはきっと、華怜の送ったものだ。
 僕はキッチンへと戻る。
「ねえ華怜。メールを返すなら、一言ちょうだいよ」
 すると華怜は振り向いて、僕を見た後、視線をわずかにそらして「ごめんなさい……」と謝った。
 別に、僕は怒ってなんかいない。それに、普段こういったメールを嬉野さんに返すぐらい別にいいと思っている。華怜は使用できる携帯を持っていないから、嬉野さんとの連絡手段は僕の携帯しかないのだから。
 僕は華怜に近付いて、おでこに手を当てた。それにびっくりしたのか、華怜はピクッと身体を震わせる。
「熱、大丈夫なの?」
「……え?」
「朝起きたら、測ってみた?」
「測ってないです……」
「ダメじゃん。三十七度以下じゃないと、喫茶店には連れてけないよ」
 そう言って、華怜の手を引いて居間へ戻った。体温計を取り出して華怜に渡すと、素直に脇へ入れて測る。
 体温は三十六度五分で、もう熱は下がっていた。これは薬を選んでくれた嬉野さんのおかげだろう。僕は安心して、華怜の頭を撫でてあげる。
「熱下がってよかったね。それじゃあ、午前中は喫茶店行こっか」
「あの……」
「どうしたの?」
 とても言い辛そうに、華怜は口ごもる。両指を絡めて、視線は右の方へ泳いでいた。
 どうしたのかと思いそれを見守っていると、ぽつり呟くように華怜は言った。
「私は、行きません……公生さん一人で行ってください……」
 僕は、華怜の行動の意味がわからなかった。行く気がなかったなら、どうしてメールを返したのだろう。
 今日の華怜はちょっとおかしい。そう考えて、以前も似たようなことがあったのを思い出した。あれは、華怜が風邪を隠していた時だ。
「もしかして、どこか調子悪いの?」
 そう訊くと、逃げ場を見つけた子猫のように首を縦に振った。それからすぐに「……実は、お腹が痛いんです」と、控えめに主張する。
「それじゃあ、喫茶店には行けないね」
「そうなんです。だから……」
「申し訳ないけど、嬉野さんには電話で断わっておくよ。今日は一緒に部屋で休んでよっか」
 今度は戸惑いの混じった目を僕に向けてくる。わけがわからない、といった風にも見てとれた。
 華怜はたぶん、僕一人で行ってほしいのだろう。でも僕には、華怜を一人にしておくことなんて出来ない。
 どうして僕一人で行って欲しいのかも、わからなかった。
「どうして……」
「鬱陶しいなって思われるかもだけど、華怜のことが心配なんだよ。僕が注意を向けてなかったせいで、風邪を引かせてしまったんだから」
「鬱陶しいなんて、そんなことっ……」
 目に涙を溜めて口を引き結び、うつむかせてしまった。
 また、何か心配をさせるようなことをしてしまったのだろうか。僕は僕自身の甲斐性のなさに呆れてくる。心配させてしまう原因すらわからないなんて、本当にダメなやつだ。
 頭を撫でてあげると、引き結んだ口を解いてくれた。
「嘘つきました……」
「気にしてないよ」
「お腹なんて、痛くありません……」
「風邪が治って、本当によかった」
 僕らはまた、二人でキッチンに立つ。間には不自然すぎる距離が開いていて、これは今の心の距離なんだなと感じた。
 少し、距離を取られているのだ。その事実が僕は、たまらなく辛かった。
 サラダを作った華怜は、いつも通り食器棚からお皿を取り出す。もう何度も見慣れた光景だから、特に気にせずフライパンの上の卵に注意を向けていた。
 それが、よくなかったのかもしれない。
 狭いキッチンの中で何かが割れる音が響いて、すぐに華怜がお皿を落としたのだということに気付いた。
 慌てて火を止めて、華怜に近寄る。
「あっ……ごめんなさい……」
「怪我、なかった?」
「……え?」
 また不思議そうな目で僕を見てくる。
「怪我だよ。飛び散った破片、足に当たったりしなかった?」
「怪我は、ありません……」
 ほっと胸を撫で下ろし、散らばった破片に注意しながら華怜を遠ざける。本当に怪我をしなくてよかった。
「あの、公生さん。お皿割ってしまって、ごめんなさい……」
「お皿なんていくらでも買い換えればいいから。華怜は何も気にしなくていいよ」
「でも、」
「華怜が怪我をしなくて、本当によかった」
 再び目に涙をためて、今度はそれがぽろっと頬に伝った。持っていたハンカチで拭いてあげて、抱きしめながらポンポンと頭をやさしく叩く。
「朝ごはんは僕が作るから、華怜は部屋で休んでて」
「……わかりました」
「今は難しいこと、何も考えなくていいから」
 そう言ってから身体を離し、もう一度頭を撫でてあげる。可愛い顔が涙でくしゃくしゃだった。
「あの、嫌いになりましたか……?」
「こんなことで嫌いになんてならないよ」
 その言葉に安心したのか、それとも別のことなのかは分からないけど、それからも華怜は涙を流し続けた。僕はずっと頭を撫で続けて、涙を拭き続けてあげる。
 誰のせいでもないけれど部屋の中の空気は最悪といっていいほど重かったから、嬉野さんがお茶を誘ってくれて本当によかったと思う。外へ出れば、少しは華怜も気晴らしになるだろうから。
 朝ごはんを食べている時は、一言も会話を交わさなかった。間違った触れ方をしてしまえば、華怜は壊れてしまいそうだったから。
 今の華怜は、ちょっとしたことで大きく感情が揺らめいてしまっている。
 たとえば味噌汁を飲んでいる時、何が心の琴線に触れたのかは分からないけれど、ぽろっと涙を流していた。固めの目玉焼きを口に運ぶ時は、箸ごと机の上に落としてしまっている。僕が「箸を取り替えるから、待っててね」と言うだけで、華怜は再び涙を流す。
 目玉焼きを僕のと取り替えればさらに涙を流し、いろいろと収拾が付かなくなっていた。
 それでも無事に朝ごはんを食べ終わると、いつも通り華怜はお皿をキッチンへ運び、いつも通りお皿を洗った。
 その間僕が隣にいて見張っていたからなのかは分からないけれど、あからさまな失敗は一つもしない。
 ただ一つだけ僕の心に重くのしかかったのは、華怜が意図的に僕と目を合わせてくれなくなったということだ。
 今までふとしたことで視線が重なっていたのに、それがバッタリと無くなってしまった。向かい合って必死に合わせようとしても、僕から逃げるように視線を泳がせてしまう。
 僕はそれが、たまらなく辛かった。
 お出かけの洋服に着替える時、僕はまたいつも通り外へ出る。心配で心配でたまらなかったけれど、女の子なんだから着替えを見られるのは嫌だろう。
 そしてまた、いつもと違うことが起きていることに気がついた。
 いつもなら、僕が玄関のドアを開けて数秒すると、見計らったかのように先輩が出てくるのに、それがなかった。
 僕としては先輩と話さずにすめば、今の華怜も少しは落ち着くだろうからほっとしている部分があったのだけど、やっぱりこっちも心配だ。
 なにせ、あの先輩が昨日部屋に居なかったのだから。
 いつも部屋にいるのが当たり前なのに、いなかった。これは結構大問題だと思う。すごく失礼な話だけど。
 十分ほど経っても華怜は合図を示さなかった。
 さすがにどうしたのかと思って部屋へ戻ると、華怜は居間の座布団に座ったまま、ただ机の上をジッと見つめていた。それにまだ、寝巻き姿のままだった。
 僕が戻ってきたのを認めると、ぎこちなく微笑んで「ごめんなさい」と言った。僕は華怜の頭を撫でてあげて、着替えを手伝ってあげる。
 一人では服も脱ごうとしなかったのに、僕が手伝うとすんなり着替えを始めてくれた。だけど自分で動くことは決してしなくて、代わりにタンスの中から洋服を出してあげる。
 気分が明るくなると思って、プレゼントした洋服を選んだ。それを華怜に着させた後、僕もすぐに着替える。
 またぽつりと、華怜は言った。
「ごめんなさい」
 僕はただ、頭を撫でてあげる。
 いったい、どうしてしまったというのだろう……
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