記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
「おはようございます。公生さん、華怜ちゃん」
僕ら二人を交互に見て微笑む。僕は笑みを返したけど、華怜は僕のやや後ろへと移動して「おはようございます……」と呟くだけだった。
それもどこか中途半端で、僕の後ろに身を隠したというよりも、嬉野さんから身を隠したといった方が正しいのかもしれない。
そんな態度に、嬉野さんは嫌な顔を一つも浮かべなかった。
正面の席に手を差し出して、「どうぞ腰掛けてください」と勧めてくれる。僕は壁際に腰掛けて、華怜は微妙な距離を開けて隣に座る。
試しに僕が椅子を華怜の方向へとずらしてみると、同じぶんだけ反対側に移動してしまったから、おそらく意図的なのだろう。
少し、意地悪をしてしまったかもと反省した。
やってきた店員さんに、コーヒーとカフェオレを注文した。僕がコーヒーで、華怜がカフェオレだ。嬉野さんの正面には、もうコーヒーとチーズケーキが置いてあった。
「今日は突然お誘いしてすいません。ご迷惑でしたか?」
「いえ、僕たちも暇だったので大丈夫ですよ」
今度は華怜の方を見て、話しやすいように嬉野さんが笑みを浮かべた。
「華怜ちゃんは、もう風邪大丈夫?」
「あの、えっと……治りました……」僕の時と同じく視線をさ迷わせている。
「そっかぁ、優しい公生お兄さんに感謝しなきゃね」
華怜はチラと僕を見た後、すぐにまた視線をうつ向かせる。心なしか照れているように見えたけれど、表情の端には気まずさも見てとれた。
華怜はその表情のまま「ありがとうございます、お……」と、不自然なところで言葉を切った。
みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。きっと『お兄ちゃん』と言い間違えそうになったんだと推測した。よくあるよくあると思いつつ、僕はくすりと笑う。
華怜は、なぜか目の端に涙を浮かべていた。
笑ってしまったのが、まずかったのだろうか。
「華怜、大丈夫……?」
「な、なんでもないですっ。ごめんなさい……」
「華怜ちゃん、もしかしてまだ体調良くなってないとか……?」今度は嬉野さんが、心配の視線を向ける。
それに対してブンブンと首を横に振り、溜まっていた涙を袖で拭いた。
僕は視線で『今日はずっとこんな感じなんです』と伝える。それを察した嬉野さんは、また不安げな表情を浮かべた。
彼女は優しい人だ。出会って間もない見ず知らずの僕らに、こんなにも気を使ってくれるなんて。
嬉野さんは、コーヒーと一緒に隣に置いてあったチーズケーキを華怜の目の前へと移動させた。
「華怜ちゃん華怜ちゃん、ほらチーズケーキだよっ! 実はこのお店一番のオススメなの!」
涙で潤ませた瞳でケーキを見たあと、猫のような伺う目で今度は嬉野さんを見た。嬉野さんはニコリと笑って、ケーキ用のフォークを華怜へと手渡す。
女の子同士の方が通じ合えるものがあると思い、ここは見守っていることにした。
華怜は素直にフォークを手に取り、もう一度嬉野さんを見る。
「甘いもの食べたら元気になるよ。食べて食べてっ」
「……ありがとうございます」
控えめにお礼を言った華怜は、フォークの先端をケーキへと突き立てた。柔らかいのかすんなりと奥まで通り、口元へと運ぶ。
その一口を食べた華怜の涙は、驚くほどピタッと止まった。そんなにここのチーズケーキは美味しいのだろうか。
「美味しいですっ」
「でしょ!」
嬉野さんは大喜びで一度手を叩き、その音が店内に響き渡る。あまりお客さんがいないため、そこまで迷惑にはなっていないけれど、ちょっとだけその音にびっくりした。
「でも、あの。これ……」
「全部食べていいよ。実は、華怜ちゃんのために注文したんだから」
彼女は嘘が上手いと思った。いや、それは事実なのかもしれないけれど、どちらにしても嬉野さんの優しさには変わりない。
「ありがとうございます」とお礼を言った華怜を見て、嬉野さんはこちらへ小さくウインクを飛ばしてくる。
僕は「ありがとうございます」と微笑みで返した。
「華怜ちゃんと公生さんは、ここら辺に自宅があるんですか?」と訊かれ、そういえば嘘をついたのだということを今更ながらに思い出した。
華怜には答えられないから、僕が答えなければいけない。
「実家は別の県なんです。それで……」
僕はマズイことに気が付く。一人暮らしの兄の家に住みながら別の県の高校へ通うなんて、普通じゃありえない気がする。
ありえないというか、不自然だ。
それなら普通に、地元の学校へ通えばいいじゃないか。
そろそろ、本当のことを説明しないといけないなと思った。そもそも隠す必要なんてなかったし、これからも仲良くしていくなら、いずれ分かってしまうことだ。
嘘をついたことを訂正するのは勇気がいるけれど、こういうのは誠実でなければいけない。
「実は……」
「私は、こっちの県の高校に通ってるんです」
僕が訂正する前に、華怜が嘘を塗り重ねてしまった。
「地元はここじゃないのに?」
その当然の疑問を嬉野さんは投げかけてきて、僕は思わず華怜を見る。動揺したり助けを求めてきたりせずに、ただ嬉野さんへと微笑みを向けていた。
そんなこと、言わなくてもわかりますよね。という優しい笑みだ。
それを受けた嬉野さんは、納得したという表情を見せている。
「お二人は、仲が良いんですね」
嘘をついて、よかったのだろうか。どうして華怜は嘘を貫き通したのだろう。
今、僕が訂正すれば華怜が嘘を付いた悪者になってしまう。それは、出来なかった。
だから僕も、その嘘を貫き通さなきゃいけない。
「そうです、仲の良い妹なんです」
その仲の良い妹とは、未だ微妙すぎる距離が開いている。この距離は心の距離でもある。少し離れてしまっただけで、華怜の考えていることが何一つ分からなくなった。
「嬉野さんは、大学に通っているんですか?」
これ以上嘘をつくことには耐えられない僕は、さりげなく話題を変える。
「私、高校を卒業してから就職したんです」大学生かと思っていたけれど、違ったらしい。
丁寧な言葉遣いは、仕事で身についたものなのだろう。
「実家はここですか?」
「生まれも育ちもずっとこちらですよ。実家暮らしなので、一人暮らしは憧れちゃいますね」
そう言った後「そういえば二人暮らしでしたね」と微笑みながら訂正した。前から思っていたけれど、仕草の一つ一つが上品な人だ。
きっと周りの人にも、よく気が配れるのだと思う。
華怜は、隣で静かにチーズケーキを食べていた。時折美味しさで笑顔を浮かべているのを見て、僕も和む。
「あの、せっかくのお休みなのに、よかったんですか?」
「昨日は有給を使って、今日と明日は休みなので暇を持て余してたんですよ。一番大事な用事は昨日終わっちゃったので。私、普段は本しか読まないんですよね」
「あ、僕もです」
思わず返答してしまった。華怜のことがあるから、適度に距離感を保とうとしていたのに。
少し、嬉野さんは笑顔になる。
「どんなジャンルをお読みになるんですか?」
「えっと……恋愛小説です」華怜が気にしていないか隣を窺うと、ちょうどチーズケーキを食べ終わった頃だった。
丁寧に手を合わせて、フォークをお皿の上へ置く。
「公生さんの本棚、恋愛小説ばかりですよね」と、さりげなく会話に混ざってきた。別に特段気にしていないようで、僕はホッとする。
心なしか、気分も落ち着いているみたいだ。
気にしすぎていたのかもしれない。
「恋愛小説いいですよねっ。名瀬先生の第一作目とか、何回も読み直してます!」
「あの予想外の場面でヒロインが死んじゃうやつですよね」
僕も、あの作品は大好きだ。
「そうですそうです! ヒロインが亡くなるところとか、私、本当に涙が止まらなくて……」
そう言った嬉野さんの目には、本当に涙が溜まっていた。それにビックリしつつも、すぐに気付いた嬉野さんは「あ、ごめんなさい!」と言って目元をハンカチで拭った。
華怜が「大丈夫ですか……?」と気にかけると「ごめんね。ちょっと、本のことになると熱くなっちゃうの」と微笑んだ。
なんというか、少し変わった人だ。
「私、ちょっとしたことでもすぐにウルッときちゃうんです。感動する小説とか読むと、涙で先に進めなくなっちゃうぐらいで」
僕はクスリと笑う。
「そんなに本が好きなんですね」
「両親が読書家だったので、子どもの頃からずっと本に囲まれてたんです。それの影響ですね」
嬉野さんもくすりと微笑む。
それから注文していたコーヒーとカフェオレを店員さんが運んでくれて、僕はお礼を言った。
「華怜ちゃんは、本は読まないの?」
「私は、ちょっとだけ読みますよ。お母さんに、読め読めって何度も言われていたので」
それは初耳だった。そもそも記憶を失っていたのだから当然だけど。
「本を勧めてくれるなんて、いいお母さんだね。私も子どもの頃に本を勧めてくれて、今はとっても感謝してるの」
「私も、とっても感謝してます」
チーズケーキのおかげなのかは分からないけど、華怜は嬉野さんに笑顔を向けていて、嬉野さんもそれを受けて微笑んでいた。
二人が打ち解けられて、本当に良かったと思う。こうしていると、僕より仲の良い姉妹に見える。いや、華怜は僕の妹じゃないんだけど。
そういえば、嬉野さんにも妹がいるのだということを思い出した。嬉野さんの年齢は、いくつなんだろうか。
「そういえば、公生さんって歳はいくつなんですか?」僕の考えていたことと全く同じ質問を投げかけてきて、ちょうどいいなと思った。
「今年の四月に誕生日を終えて、今は二十歳ですよ」
答えると、嬉野さんは予想外の反応を示した。
驚いたといった表情を浮かべたあと、華怜に対してみせる笑みを僕にも見せてくれたのだ。
「同い年っ!」
「え?」
僕はその事実を聞いて、変な声が出た。
「私たち、同い年だったんですねっ」
ようやく、彼女の言っていることを理解できた僕は、驚きつつも少し笑うことができた。
「嬉野さんも、二十歳なんだね。てっきり二、三歳は上なのかと思ってました」
そう言った後、僕は慌てて「あ、あの。別に老けてるとかじゃなくて、大人っぽいって意味ですっ」と訂正する。
嬉野さんは人懐っこい笑みを浮かべた。
「大人っぽいって言われたの、初めてです。いつもは子どもっぽいって言われるので。あと、私も公生さんって二、三歳は年上なのかなって思ってました」
全く同じことを考えていたらしく、ちょっとおかしかった。
そしてどこかいい雰囲気になってしまったから、華怜がまたヤキモチを焼くかと思って冷やっとしたけど、そんなことなかった。僕はちょっと自惚れ始めたのかもしれないと、自嘲気味になる。
「二人とも、お似合いですね」
それは嫌味なんかじゃなくて、純粋に思ったことなんだと思う。嬉野さんと似たような笑みを浮かべて、クスクスと笑っていた。
それから「茉莉華さんって、四月の何日生まれなんですか?」と華怜は聞いた。
さすがにそれはないだろうと思ったけれど、嬉野さんの次の言葉は僕を二度驚かせることになる。
「四月の二十七日だよ」
「うわ、マジですか」
思わず変な日本語になる。
嬉野さんは口元に手を当てていた。
「もしかして、公生さんも?」
「僕も、四月二十七日です」
こんな偶然、あるのだろうか。
僕は元々女の子との関わりが少ないから、余計に変な気持ちになってくる。
「私たちって同じ日に生まれて、こうして偶然知り合えたんですね」
「なんか、すごい確率ですね」
「はいっ!」
嬉野さんは屈託のない笑みを浮かべる。
それから「もしよければなんですけど、このあと駅前の本屋に行きませんか?まだ二人といろいろお話がしたいんです」と言ってくれた。
僕は華怜さえよければいいと思っている。隣をチラと伺うと、控えめに小さく頷いていた。それにはどこか期待と嬉しさのようなものが含まれていて、僕への気まずさはちょっとだけ減っている気がした。
僕ら二人を交互に見て微笑む。僕は笑みを返したけど、華怜は僕のやや後ろへと移動して「おはようございます……」と呟くだけだった。
それもどこか中途半端で、僕の後ろに身を隠したというよりも、嬉野さんから身を隠したといった方が正しいのかもしれない。
そんな態度に、嬉野さんは嫌な顔を一つも浮かべなかった。
正面の席に手を差し出して、「どうぞ腰掛けてください」と勧めてくれる。僕は壁際に腰掛けて、華怜は微妙な距離を開けて隣に座る。
試しに僕が椅子を華怜の方向へとずらしてみると、同じぶんだけ反対側に移動してしまったから、おそらく意図的なのだろう。
少し、意地悪をしてしまったかもと反省した。
やってきた店員さんに、コーヒーとカフェオレを注文した。僕がコーヒーで、華怜がカフェオレだ。嬉野さんの正面には、もうコーヒーとチーズケーキが置いてあった。
「今日は突然お誘いしてすいません。ご迷惑でしたか?」
「いえ、僕たちも暇だったので大丈夫ですよ」
今度は華怜の方を見て、話しやすいように嬉野さんが笑みを浮かべた。
「華怜ちゃんは、もう風邪大丈夫?」
「あの、えっと……治りました……」僕の時と同じく視線をさ迷わせている。
「そっかぁ、優しい公生お兄さんに感謝しなきゃね」
華怜はチラと僕を見た後、すぐにまた視線をうつ向かせる。心なしか照れているように見えたけれど、表情の端には気まずさも見てとれた。
華怜はその表情のまま「ありがとうございます、お……」と、不自然なところで言葉を切った。
みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。きっと『お兄ちゃん』と言い間違えそうになったんだと推測した。よくあるよくあると思いつつ、僕はくすりと笑う。
華怜は、なぜか目の端に涙を浮かべていた。
笑ってしまったのが、まずかったのだろうか。
「華怜、大丈夫……?」
「な、なんでもないですっ。ごめんなさい……」
「華怜ちゃん、もしかしてまだ体調良くなってないとか……?」今度は嬉野さんが、心配の視線を向ける。
それに対してブンブンと首を横に振り、溜まっていた涙を袖で拭いた。
僕は視線で『今日はずっとこんな感じなんです』と伝える。それを察した嬉野さんは、また不安げな表情を浮かべた。
彼女は優しい人だ。出会って間もない見ず知らずの僕らに、こんなにも気を使ってくれるなんて。
嬉野さんは、コーヒーと一緒に隣に置いてあったチーズケーキを華怜の目の前へと移動させた。
「華怜ちゃん華怜ちゃん、ほらチーズケーキだよっ! 実はこのお店一番のオススメなの!」
涙で潤ませた瞳でケーキを見たあと、猫のような伺う目で今度は嬉野さんを見た。嬉野さんはニコリと笑って、ケーキ用のフォークを華怜へと手渡す。
女の子同士の方が通じ合えるものがあると思い、ここは見守っていることにした。
華怜は素直にフォークを手に取り、もう一度嬉野さんを見る。
「甘いもの食べたら元気になるよ。食べて食べてっ」
「……ありがとうございます」
控えめにお礼を言った華怜は、フォークの先端をケーキへと突き立てた。柔らかいのかすんなりと奥まで通り、口元へと運ぶ。
その一口を食べた華怜の涙は、驚くほどピタッと止まった。そんなにここのチーズケーキは美味しいのだろうか。
「美味しいですっ」
「でしょ!」
嬉野さんは大喜びで一度手を叩き、その音が店内に響き渡る。あまりお客さんがいないため、そこまで迷惑にはなっていないけれど、ちょっとだけその音にびっくりした。
「でも、あの。これ……」
「全部食べていいよ。実は、華怜ちゃんのために注文したんだから」
彼女は嘘が上手いと思った。いや、それは事実なのかもしれないけれど、どちらにしても嬉野さんの優しさには変わりない。
「ありがとうございます」とお礼を言った華怜を見て、嬉野さんはこちらへ小さくウインクを飛ばしてくる。
僕は「ありがとうございます」と微笑みで返した。
「華怜ちゃんと公生さんは、ここら辺に自宅があるんですか?」と訊かれ、そういえば嘘をついたのだということを今更ながらに思い出した。
華怜には答えられないから、僕が答えなければいけない。
「実家は別の県なんです。それで……」
僕はマズイことに気が付く。一人暮らしの兄の家に住みながら別の県の高校へ通うなんて、普通じゃありえない気がする。
ありえないというか、不自然だ。
それなら普通に、地元の学校へ通えばいいじゃないか。
そろそろ、本当のことを説明しないといけないなと思った。そもそも隠す必要なんてなかったし、これからも仲良くしていくなら、いずれ分かってしまうことだ。
嘘をついたことを訂正するのは勇気がいるけれど、こういうのは誠実でなければいけない。
「実は……」
「私は、こっちの県の高校に通ってるんです」
僕が訂正する前に、華怜が嘘を塗り重ねてしまった。
「地元はここじゃないのに?」
その当然の疑問を嬉野さんは投げかけてきて、僕は思わず華怜を見る。動揺したり助けを求めてきたりせずに、ただ嬉野さんへと微笑みを向けていた。
そんなこと、言わなくてもわかりますよね。という優しい笑みだ。
それを受けた嬉野さんは、納得したという表情を見せている。
「お二人は、仲が良いんですね」
嘘をついて、よかったのだろうか。どうして華怜は嘘を貫き通したのだろう。
今、僕が訂正すれば華怜が嘘を付いた悪者になってしまう。それは、出来なかった。
だから僕も、その嘘を貫き通さなきゃいけない。
「そうです、仲の良い妹なんです」
その仲の良い妹とは、未だ微妙すぎる距離が開いている。この距離は心の距離でもある。少し離れてしまっただけで、華怜の考えていることが何一つ分からなくなった。
「嬉野さんは、大学に通っているんですか?」
これ以上嘘をつくことには耐えられない僕は、さりげなく話題を変える。
「私、高校を卒業してから就職したんです」大学生かと思っていたけれど、違ったらしい。
丁寧な言葉遣いは、仕事で身についたものなのだろう。
「実家はここですか?」
「生まれも育ちもずっとこちらですよ。実家暮らしなので、一人暮らしは憧れちゃいますね」
そう言った後「そういえば二人暮らしでしたね」と微笑みながら訂正した。前から思っていたけれど、仕草の一つ一つが上品な人だ。
きっと周りの人にも、よく気が配れるのだと思う。
華怜は、隣で静かにチーズケーキを食べていた。時折美味しさで笑顔を浮かべているのを見て、僕も和む。
「あの、せっかくのお休みなのに、よかったんですか?」
「昨日は有給を使って、今日と明日は休みなので暇を持て余してたんですよ。一番大事な用事は昨日終わっちゃったので。私、普段は本しか読まないんですよね」
「あ、僕もです」
思わず返答してしまった。華怜のことがあるから、適度に距離感を保とうとしていたのに。
少し、嬉野さんは笑顔になる。
「どんなジャンルをお読みになるんですか?」
「えっと……恋愛小説です」華怜が気にしていないか隣を窺うと、ちょうどチーズケーキを食べ終わった頃だった。
丁寧に手を合わせて、フォークをお皿の上へ置く。
「公生さんの本棚、恋愛小説ばかりですよね」と、さりげなく会話に混ざってきた。別に特段気にしていないようで、僕はホッとする。
心なしか、気分も落ち着いているみたいだ。
気にしすぎていたのかもしれない。
「恋愛小説いいですよねっ。名瀬先生の第一作目とか、何回も読み直してます!」
「あの予想外の場面でヒロインが死んじゃうやつですよね」
僕も、あの作品は大好きだ。
「そうですそうです! ヒロインが亡くなるところとか、私、本当に涙が止まらなくて……」
そう言った嬉野さんの目には、本当に涙が溜まっていた。それにビックリしつつも、すぐに気付いた嬉野さんは「あ、ごめんなさい!」と言って目元をハンカチで拭った。
華怜が「大丈夫ですか……?」と気にかけると「ごめんね。ちょっと、本のことになると熱くなっちゃうの」と微笑んだ。
なんというか、少し変わった人だ。
「私、ちょっとしたことでもすぐにウルッときちゃうんです。感動する小説とか読むと、涙で先に進めなくなっちゃうぐらいで」
僕はクスリと笑う。
「そんなに本が好きなんですね」
「両親が読書家だったので、子どもの頃からずっと本に囲まれてたんです。それの影響ですね」
嬉野さんもくすりと微笑む。
それから注文していたコーヒーとカフェオレを店員さんが運んでくれて、僕はお礼を言った。
「華怜ちゃんは、本は読まないの?」
「私は、ちょっとだけ読みますよ。お母さんに、読め読めって何度も言われていたので」
それは初耳だった。そもそも記憶を失っていたのだから当然だけど。
「本を勧めてくれるなんて、いいお母さんだね。私も子どもの頃に本を勧めてくれて、今はとっても感謝してるの」
「私も、とっても感謝してます」
チーズケーキのおかげなのかは分からないけど、華怜は嬉野さんに笑顔を向けていて、嬉野さんもそれを受けて微笑んでいた。
二人が打ち解けられて、本当に良かったと思う。こうしていると、僕より仲の良い姉妹に見える。いや、華怜は僕の妹じゃないんだけど。
そういえば、嬉野さんにも妹がいるのだということを思い出した。嬉野さんの年齢は、いくつなんだろうか。
「そういえば、公生さんって歳はいくつなんですか?」僕の考えていたことと全く同じ質問を投げかけてきて、ちょうどいいなと思った。
「今年の四月に誕生日を終えて、今は二十歳ですよ」
答えると、嬉野さんは予想外の反応を示した。
驚いたといった表情を浮かべたあと、華怜に対してみせる笑みを僕にも見せてくれたのだ。
「同い年っ!」
「え?」
僕はその事実を聞いて、変な声が出た。
「私たち、同い年だったんですねっ」
ようやく、彼女の言っていることを理解できた僕は、驚きつつも少し笑うことができた。
「嬉野さんも、二十歳なんだね。てっきり二、三歳は上なのかと思ってました」
そう言った後、僕は慌てて「あ、あの。別に老けてるとかじゃなくて、大人っぽいって意味ですっ」と訂正する。
嬉野さんは人懐っこい笑みを浮かべた。
「大人っぽいって言われたの、初めてです。いつもは子どもっぽいって言われるので。あと、私も公生さんって二、三歳は年上なのかなって思ってました」
全く同じことを考えていたらしく、ちょっとおかしかった。
そしてどこかいい雰囲気になってしまったから、華怜がまたヤキモチを焼くかと思って冷やっとしたけど、そんなことなかった。僕はちょっと自惚れ始めたのかもしれないと、自嘲気味になる。
「二人とも、お似合いですね」
それは嫌味なんかじゃなくて、純粋に思ったことなんだと思う。嬉野さんと似たような笑みを浮かべて、クスクスと笑っていた。
それから「茉莉華さんって、四月の何日生まれなんですか?」と華怜は聞いた。
さすがにそれはないだろうと思ったけれど、嬉野さんの次の言葉は僕を二度驚かせることになる。
「四月の二十七日だよ」
「うわ、マジですか」
思わず変な日本語になる。
嬉野さんは口元に手を当てていた。
「もしかして、公生さんも?」
「僕も、四月二十七日です」
こんな偶然、あるのだろうか。
僕は元々女の子との関わりが少ないから、余計に変な気持ちになってくる。
「私たちって同じ日に生まれて、こうして偶然知り合えたんですね」
「なんか、すごい確率ですね」
「はいっ!」
嬉野さんは屈託のない笑みを浮かべる。
それから「もしよければなんですけど、このあと駅前の本屋に行きませんか?まだ二人といろいろお話がしたいんです」と言ってくれた。
僕は華怜さえよければいいと思っている。隣をチラと伺うと、控えめに小さく頷いていた。それにはどこか期待と嬉しさのようなものが含まれていて、僕への気まずさはちょっとだけ減っている気がした。