記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
24.君を嫌いにならない理由
 しかし喫茶店を出た後、華怜は思い出したかのように僕への態度を急変させた。
 先ほどまでは少し機嫌が元に戻りかけていたのに、僕からは微妙な距離を取って、目を合わせようとすれば気まずそうにぷいっと反対方向を向く。
 それでも嬉野さんに対してはいつも通りの反応を示していたから、雰囲気が悪くなることはなかった。僕がただ黙っていれば、嬉野さんも変には思わないだろう。
 僕は邪魔をしないように半歩ほど後ろを歩いた。近付こうとしても、反発する磁石のように遠のいてしまうのだ。仕方ないと思う。
 駅前の本屋はショッピングモールの五階にある。七階には映画館もあり、新作の映画が公開されたのか客足も多い。
 エレベーターで五階まで一気に登る。
 本屋の中は雑貨屋と複合していて、それなりに開放感があった。手前には雑誌棚が置いてあり、中高生が漫画の週刊誌を立ち読みしている。
 そこを抜けると右手には漫画コーナー、左手には小説コーナーと分かれていて、迷いなく嬉野さんが左手へ吸い寄せられていったから僕もついて行く。
 初めは文庫本コーナーに入り、嬉野さんがオススメの小説を文字通り片っ端から教えてくれた。次々と棚から本を引き出しては、その小説の良い部分・悪い部分を笑顔で語ってくれたのだ。
 オススメする小説はどれも面白そうで、多分それは嬉野さんがオススメしてくれているからなのだとすぐにわかった。
 本当に本が好きだから、その良さを僕らにも知ってほしい。そんな気持ちが会話の節々から溢れて見えるから、興味が惹かれるのだ。
 僕も本が好きだけれど、きっと嬉野さんほど夢中になれていない。そんなに夢中になれるのは、喫茶店で言っていた通り、ずっと本に囲まれて生活してきたからなのだろう。
 華怜もこの時ばかりは隣にいる僕のことを忘れて、嬉野さんの話を聞き入っていた。
 そんな嬉野さんは、『生き別れになって死んでしまった妹が主人公の元へ会いに来て、果たせなかった約束を守りにくる』というあらすじの小説をオススメしている時、ふいに頬を赤らめて恥じらいを見せた。
 どうしたんだろうと思い僕と華怜が首をかしげると、申し訳なさそうに嬉野さんは話してくれる。
「ご、ごめんなさい。いつもの私の癖で……本の話に夢中になると、周りが見えなくなるんです……」
「全然大丈夫ですよ。僕も小説は大好きなので」隣にいる華怜も「そうですっ」と頷いてくれた。
「こいつ、趣味のことになるとペラペラうるせーなって思ってませんか……?」
 僕は少し吹き出す。そんなことは微塵も思っていなかったから、嬉野さんの口から飛び出した言葉が面白かったのだ。
 今度は華怜が「むしろ、もっとたくさん聞かせてください。茉莉華さんのお話、大好きですよ」と励ましを入れてくれた。
 その言葉に安心したのか、ほっと胸を撫で下ろしている。
「私、高校の頃も友人に本の話ばかりしちゃってて、気付いたらいつも引きつった苦笑いをされてたんです。久しぶりに趣味の合う方と知り合えたから、つい……」
 もしかするとそのお友達は、活字が苦手だったのかもしれない。それなら、嬉々とした表情で小説のオススメを聞かされても戸惑ってしまうだけだろう。
「僕たちも本が好きなので、思う存分に語ってくれて大丈夫ですよ」
「そう、ですか? ありがとうございます」
 安心したように嬉野さんが微笑むと、僕と華怜もつられて微笑んだ。
 それから嬉野さんは単行本の新刊が平積みされているコーナーに移動して、その中の一つを手に取った。淡い水色を基調とした表紙で、教室の中に学生服を着た五人の男女が立っている。
 作者の名前は名瀬雪菜。それは名瀬先生の新刊だった。
「名瀬先生って、どんな人だったと思います?」
 唐突にそんなことを質問してきて、僕は名瀬先生の姿を思い浮かべた。
 しかしその像は曖昧で、しっかりとした姿を形成しない。それは名瀬雪菜が性別以外の一切の情報を明かしていなかったからだ。
 彼女が何歳で、どこに住んでいて、どんな容姿をしているのか。僕はそれがずっと気になっていたし、ファンの人も気になっていただろう。
「どんな人だったんですか?」僕は質問する。
「私よりちょっと年齢が上の女性でしたよ。もしかすると、大学生かもしれません」
「え、そんなに若かったんですか?」
「びっくりですよね」
 本当にびっくりだ。
 二十代後半かそこらだと思っていたのに、まさか僕と同じ大学生だという可能性があるなんて。
 もしかすると、どこかで会っているのかもしれない。
「とっても綺麗な人でした。私よりずっと年上の人だとばかり思ってたので、開いた口が塞がりませんでしたよ」
「僕もその場にいたら、きっと唖然としてたと思います」
 そんな話をしていると、なぜか華怜の表情が張り詰めた気がした。どうしたんだろうと思ってチラと伺うと、華怜もこちらを見つめていたようで、数秒遅れて目をそらす。
……嫉妬?
「でも名瀬先生、ちょっと浮かない顔をしてました」
「浮かない顔ですか?」華怜のことが気になったけど、その言葉に引きつけられる。
「ちょっとだけ話したんですけど、ずっとあたりをキョロキョロしてて、サインしてる時も誰かを探してるみたいだったんです。なにか、あったんですかね?」
「知り合いに見つかるのが嫌だった、とかじゃないんですか?」その発言をしてすぐに、それは違うなと思った。
「知り合いに見つかるのが嫌なら、そもそもサイン会なんて開かないと思います。もしかすると……誰かを探していたんですかね?」
 その線が一番濃厚だと思った。今まで顔出しすらしてこなかったのに、地元でわざわざサイン会を開いたのだ。もしかすると、誰かが来るのを待っていたのかもしれない。
 それはちょっとロマンチックだなと、ふと思った。
 そんなことを考えていると、嬉野さんは話題を変えてきた。
「公生さんは、どうして名瀬先生の小説が好きになったんですか?」
 その質問を受けて、僕はもう一度華怜を見た。すぐに目をそらされる。
 あぁ、怒ってるな……と、なんとなくわかった。だけど質問された手前、切るわけにもいかない。答えてから、華怜に釈明を入れようと思った。
「高校生の頃に名瀬先生の本を偶然読んで、思わず泣いちゃったんです」
「確かに、泣けますよね」
「それからですね、名瀬先生の本を読むようになったのは」
 本当はそのセリフの後に、小説家を目指そうと決めた経緯が挟まれる。僕は偶然にも名瀬先生の本を読んで、思わず涙した。
 複線の丁寧さ、演出力の高さ、ヒロインの魅力、全てが秀でていたのだ。当時の僕は全く本を読まない人間だったから、名瀬先生の作品がそれから読む全ての本の基準になった。
 それほど僕は名瀬先生に影響されて、ふと思ってしまったのだ。僕も文章で誰かを感動させられる人になりたいと。
 それからは必死だった。
 いくつもの活字に触れて、キーボードを何度も叩いて、物語を作っていった。
 だけど僕という人間は卑屈な部分があるから、それを表に出すことができなかったんだ。
 先輩に出会って技術は向上したけれど、全てを自己完結で済ませてしまった。そしてふと、『あぁ、やっぱりダメなんだな』っていつものように思ってしまった。
 そんな時に、華怜が現れてくれたのだ。
 思いを馳せていると、嬉野さんは小さな笑みを浮かべた。
「名瀬先生のこと、公生さんも大好きなんですね」
 僕は迷わずに答えた。その時に、少し笑顔になってしまったのがダメだったのかもしれない。
「憧れ、みたいなものです」
「憧れる気持ちも、好きってことなんじゃないですか?」
 そう嬉野さんが付け加えたのが、まずかったのかもしれない。
 隣でずっと話を聞いていた華怜が、僕らから一歩ほど離れた。どうしたのかと思ってそちらを見ると、彼女は大きな瞳に涙をためていた。
 あぁ、まずい。そう思った時にはもう、遅かった。
 華怜は袖で涙を拭いて、小さく「ごめんなさい……ちょっと、トイレ行きます……!」と呟いた後、そのまま書店の外へ走り出してしまった。
 状況が飲み込めない嬉野さんは頭の上にいくつもハテナマークが浮かんでいて、なんとなく理解できてしまった僕は「ちょっと、ここで待ってて!」と言って華怜を追いかける。
 僕のミスだった。
 後ろから嬉野さんの小さな声が聞こえた気がしたけれど、無視した。書店を出ると華怜がエレベーターの方へと走っていくのが見えた。
「ちょっと待って、華怜!」
 ショッピングモールの真ん中でこんな大声を出すのは迷惑だと思ったけれど、仕方ない。
 だけど華怜はびくりと身体を震わせただけで、足を止めてはくれなかった。僕と華怜は何度も人にぶつかりながら、逃げて追いかける。
 ここで離してしまったら、何もかもが終わってしまう気がした。そんな予感がどこかに渦巻いていた。
 僕は必死に追いかける。
 その願いが通じたのかどうかは分からないけれど、華怜がエレベーターへ到着した時、三台あるうちの一台もこのフロアには止まっていなかった。
 華怜は最後の抵抗で、すぐ右手にある普段は誰も使わない非常階段の方へと走って降り始めたけれど、さすがに大学生の僕の方が足は速い。
 五階と四階の間にある非常階段の踊り場で、ようやく僕は華怜を捕まえた。幸い、ここには僕と華怜以外に誰もいない。
 お互いに息を切らせて、その呼吸音だけが踊り場に響き渡る。
 僕は深呼吸をして、呼吸を整えた。
「ごめん、華怜……また、不安にさせて」
 こっちを向いてほしい。表情を見せてくれなきゃ、何を感じているのかが分からない。声に出してくれなきゃ、何を思っているのか分からない。
 だから、返事を……
「華怜……?」
 瞬間。踊り場に、甲高い破裂音が響いた。
 それは手のひらが皮膚の表面に当たる時に発する音で、他ならぬ華怜の右手と僕の左頬から鳴り響いたのだとすぐにわかった。
 左頬が焼けたように痛む。
 左手で触ると、電気が走ったようにピリッと痛みが走った。
 この場で動揺しているのは僕じゃなく、華怜の方だった。叩いた側であるのに、自分の右手を見つめて両目を見開いている。それから大粒の涙が溢れだして、頬を濡らし始めた。
「わた、し……こんなつもりじゃ……」
 それから僕を見て、華怜は引きつった笑みを浮かべた。後悔と、自責と、悲しさと、寂しさと、不安の全てがないまぜになってしまった酷い表情だった。
 僕は、こんなにも華怜のことを追い詰めてしまっていたのだ……
「ははっ……わたしのこと、嫌いになりましたよね……?」
「そんなことない」
「嘘ですよっ……こんな、わたしなんか……!」
 考えるよりも先に、華怜のことを抱きしめた。嫌だ嫌だと胸の中で暴れるけれど、僕は必死に腕の中に収める。
 やがて大人しくなった華怜は、立っていられなくなったのか膝をがくんと折った。僕は優しく抱きとめたまま、一緒に床へと膝を付ける。
「わたっ、わたしっ……!」
「今は、何も喋らなくてもいいよ」
 涙と緊張で華怜の声はヒクついていた。
 それでも喋ろうとした華怜の声は、風のように微かな音となって僕の耳へと届く。
「どうして……わたしのことを、嫌いになってくれないんですか……?」
 その問いかけを、今日の僕は何度もされた気がする。そのたびに僕は曖昧な返答をしてきて……きっとそれがいけなかったのだろう。
 華怜を安心させるために、本心を伝えておくべきだったのだ。恥ずかしくても、こうなる前に伝えておくべきだった。
 もう、何もかもが遅いのかもしれないけれど、全てが間に合わなくなる前に伝えておこうと思った。
僕は、
「僕のことを好きになってくれた人を、嫌いになんてなれないよ」
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