記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
4.恥じらいを見せる君
料理をするとき、側で見ていてもいいという許可を得たため、僕はキッチンに立っている華怜の後ろでジッとしていた。
 実を言うと、無理を押し切って許可を得たのだけれど。
 恥ずかしいから座っていてくださいと言われたが、子どもみたいに駄々をこねてみると仕方ないですねというように折れてくれた。
 そうまでして華怜のそばに居たかったのは、本当に料理ができるのかというのが三割、料理に興味があるというので三割、残りの四割は青い春真っ盛りの高校生みたいな理由だった。
 ジッと華怜の一挙手一投足を眺めていると、難しい顔をしながらこちらに振り向いてくる。
「あの……視線が恥ずかしいです」
「ご、ごめん。気をつけるよ」
 そうは言っても、自分の部屋のキッチンに女の子が立つなんて今までに一度もなかったことだから、興味を抑えるのはちょっと難しい。
 視線を若干そらしつつも、僕はずっと華怜の包丁さばきを見ていた。
 一定のリズムで玉ねぎやほうれん草を切っていく姿を眺めていると、僕はいつの間にか母親の姿を思い浮かべていた。子どもの頃、こんな風にお母さんのことを後ろから眺めていたのだ。
「ちなみに、なにを作ってるの?」
「内緒です」
「えー気になる」
「出来てからのお楽しみですね」
 黙ってその後も眺めていると、ふと華怜の手が止まった。
 ちょうどフライパンの上に玉ねぎとソーセージを乗せて炒めようとしていたときだ。
 不思議なものを見るような目で、コンロ周りをキョロキョロと見渡している。
 どうしたのか訊こうと思ったけれど、その理由はすぐにわかった。
 僕はコンロの側面に付いているツマミを回す。
 瞬間、火がボッと飛び出し、フライパンの底面を勢いよく熱する。火が付いたのを見て、華怜はホッとしていた。
「僕がいてよかったね」
「ありがとうございます……」
「最近はIHとか増えてきたから。ジェネレーションギャップっていうやつかな」
 ここは築年数が経っているから、IHに変わってはいないのだ。華怜の家はきっと、こんな形をしていなかったのだろう。
 それからは具材を軽く炒めた後、卵と牛乳を入れてかき混ぜた。パイシートで型を作り、かき混ぜた具材を流し込んでいく。
 それをオーブンの中へ入れて、華怜は満足げに微笑んだ。
「これで後三十分もすれば完成です!」
「じゃあ、居間で休憩しようよ。トランプとか……」
「さーて、今からお味噌汁の準備しますね」
 決して無視したわけではないのだろう。
 料理を作るのに一生懸命な華怜は、テキパキと残った具材で用意を始めてしまった。
 僕はちょっと寂しくなって、グッと隣へ近寄る。ようやく認識してくれたようで、ビクリと肩を震わせていた。
「えっと、どうしたんですか?」
「何か手伝えることはない?」
「そうですねぇ、じゃあ机の上を拭いておいてください」
「ジャガイモ切るよ。任せて」
 置いてあった包丁を握って、華怜の見様見真似で突き立てる。
 自分でもわかるけれど、すごく不恰好で危なっかしくて恥ずかしかった。
 それでも最初は隣で見守ってくれていて、だけどさすがに見かねたのか僕の手に柔らかい手のひらを重ねてきた。
「左手が開いてます」
「あ、うん……」
「猫の手みたいにしないと、怪我をしますよ」
「猫の手……」
 ガチガチに固まった手をやっとの思いで軽く握り直し、だけど右手の力は不自然に抜け切っていた。
「包丁は前に押すようにしながら、力を入れて切るんです」
「押すようにしながら……」
 言われた通りにやると、ストンとすんなり切ることができた。
 というか、三つか四つも年が離れている子に、どうしてこんなにも心が乱されているんだ。
 僕の方が年上なのだから、余裕というものを見せないと。
 そう考えていると、華怜は重ねていた手をパッと離して、慌てて右へ距離をとった。顔が赤く染まっていて、目の焦点が若干定まっていない。
「ご、ごめんなさい。お手を触ったりして」
 ようやく年相応の恥じらいを見せてくれて、僕は少し安心する。そして華怜のおかげで幾分か冷静になることができた。
 なるべく自然に微笑んで「ありがとね」とお礼を言う。
 華怜は頬っぺたに手を当てて、そのまま顔を左右にブンブン振った。小動物みたいで可愛い。
 今の華怜に包丁を握らせるのはさすがにまずいと思ったから、教えてもらったことを頭に思い浮かべて、ゆっくりと正確にジャガイモを切った。未だに彼女の手のひらの感覚は残っている。
 華怜はしばらくすると大きな深呼吸をして、それからテクテクとぎこちない動作で戻ってきた。僕らの間は近すぎず遠すぎずの微妙な距離。
 恥じらいを見せながら、それからも華怜は優しく丁寧に指導してくれた。
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