記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
42.親愛なる
 昨日の夜まで、手紙を最後に書いたのは僕だと思っていたけど、それは違った。

 朝目を覚ますと、華怜はリビングで色鉛筆を持ちながら、いそいそと手紙を書いていた。僕が「おはよう、華怜」と言うと、慌てたように手紙を隠す。

 それから「お、おはよー! おとーさん」と、明らかに動揺している姿を見せた。僕は微笑みながら、リビングから出る。自分に書いた手紙を読まれたくないんだろう。

 それから朝ごはんを食べて、公園へ集まった。

 みんなが書いた手紙は大瓶の中に入れられている。今は公園の憩いの場に設置された机の上に置かれていて、僕ら大人たちは最後の別れを惜しんでいた。

 最後といっても、これが最後というわけじゃない。会いたいと思えばいつでも会いに行ける距離だ。

「すまないね。私たちの家庭の事情で、色々と心配をかけさせてしまって」
「いえ。僕たちは、ただ早く元に戻れることを祈ってますよ」
「うん。出来るだけ、早く元に戻れたらって思ってるよ……」

 前は気にしていない風だったのに、今は少し思いつめた雰囲気を漂わせていた。心配になった茉莉華は、奈雪さんの手を握る。

 「大丈夫ですよ。きっと、なんとかなります。奈雪さんの想いは、ちゃんと届きますから」

 その励ましの言葉に、奈雪さんは目を伏せた。どうしたのだろうと思っていると、ぽつりと呟くように奈雪さんは言う。

「夫は悪くないんだよ。悪いのは、実は全部私なんだ」
「え?」

 僕と茉莉華の疑問の声は、二つ同時に重なった。奈雪さんは今まで具体的なことを話してこなかったから、どうして関係がこじれたのかを僕らは知らない。

 だから勝手に推測をして、だけど奈雪さんが発端だとは全然考えもしていなかった。

「奈雪さんのせいって、どうしてですか?」
「単純なことなんだよ。夫は私のことを好きになってくれたけど、私は心の底から好きになる努力をしなかった。そういうのが、夫にバレてたんだろうね」
「好きになる努力をしなかったって……」
「夫のことは好きだよ。でも、心の底からとい言われると、自信がない。そんな中途半端じゃ、夫婦仲が上手くいくわけないだろ?」

 奈雪さんは自嘲気味に笑った。

 その現状は、数年前の僕に似ていた。僕は茉莉華のことを、茉莉華が想ってくれているのと同じくらい好きになれるのかが不安だった。

 だけどそれは自分の中でちゃんと決着がついて、足りないなら好きになる努力をして補えばいいじゃないかという結論が出た。

 それからの僕は、しっかりと茉莉華に向き合い、だんだんと距離を縮めてきて、次第に肌も重ねるようになった。

 あの頃は不安だったけど、今ならハッキリと言える。僕は、茉莉華が僕を好きでいてくれるのと同じぐらい、茉莉華のことが好きだ。

 そして、華怜のことも。

「奈雪さんは、これからどうするんですか……?」

 それを聞いたのは茉莉華の方で、僕は黙ったままだった。

 一歩考え方を間違えていれば、茉莉華だけじゃない、華怜にも不幸を背負わせていたのだとしたら、僕はその重みに耐えられなくなる。だから僕は少しだけ、奈雪さんの心がわかった気がした。

 しかし、少しわかっただけで、本当のところは何も分からない。

「私は、距離を置いて反省するよ。出来るだけ連絡を取り合うようにして、これからは好きになる努力をする。ずいぶん遅くなってしまったけど、手遅れというわけじゃないと思うんだ。そして心の底からまた会いたいと思ったら、自分からここへ戻ってくるよ」

 その決意は本物で、だから僕の心も少しだけ軽くなった。奈雪さんがそうと決められたなら、きっと上手くいく。

「ずっと待ってますよ、奈雪さんと公介くんのこと」
「あぁ、待っててくれ」

 奈雪さんは、最後に柔らかく微笑んだ。もうそろそろ頃合いだと思った僕は、砂場で遊んでいる子どもたちへと目を向ける。

 ちょうど砂のトンネルを作っているところで、お互いの指が触れ合ったんだろう。公介くんはびっくりして跳びのき、華怜は公介くんの大声で身体を震わせていた。

 初々しいなと思いつつそれを見守っていると、どうやら会話は終わったようだ。僕は手紙の入った大瓶と穴を掘るために用意したスコップを持ち、二人のところへ向かう。

「そろそろ、タイムカプセル埋めよっか」

 華怜の顔は少し赤くなっていて、僕と目を合わせずに「うん……」と頷いた。そんなに恥ずかしいことを手紙に書いたのだろうかと思い、僕は微笑む。

「満開だね」茉莉華が言った。

 僕はその木を見上げて、同じことを思う。

 きっとここでみんなと集まったことは、一生かけても忘れない思い出になる。たとえ遠くへ行っても、この木を見れば懐かしい日々をすぐに思い返すことができるだろう。

「華怜、ちょっと待っててもらっていい?」
「あ、うん……」

 華怜にタイムカプセルを持っていてもらい、僕は地面にスコップを突き立てた。誰かが掘り出して見つけてしまわないように、結構深くまで掘らなきゃいけない。

 みんな僕のことを見守ってくれていて、僕は心の奥から力が湧いてくる。それに笑顔になりつつ、僕は尚も穴を掘り続けた。

 不意に、鉄と何かがぶつかる音が周りに響く。
「……あれ?」

 僕はそれをツンツンと突いてみた。それは確かにそこにあって、隣からみんなが覗き込んできた。

「もしかして、岩が埋まってた?」
「たぶん音だけ聞くと岩じゃないと思うな」
「じゃあ、先客がいたとか?」
「それはちょっと困っちゃうね」

 茉莉華と奈雪さんがそんな話をしている中で、僕の胸は不自然にどくんどくんと脈打っていた。それは息苦しいほどで、本当はそんなことしちゃダメなんだろうけど、その先客のタイムカプセルを掘り返そうとしていた。

「ちょっと公生くん、まずくない? 他の人のタイムカプセルだったら、」

 初めて茉莉華の声を無視して、僕は一心不乱にそこを掘り進めた。頭の中にあるのは、この正体不明の感情の意味を知りたい。ただそれだけだった。

 やがて、その埋められたものの全容が見えてくる。

 それは僕たちが埋めようとしていた瓶よりだいぶ小さなもので、取り出してみると中にあるものが反動で少し揺れた。

 そこに入っていたものは、数枚の手紙だった。僕はいつの間にかその瓶の蓋に手をかけていて、茉莉華が慌てて僕の腕を掴む。

「さすがにそれはダメだよ。公生くんも、自分の手紙見られたら恥ずかしいでしょ? ほら、今すぐ元の場所に……」

 僕はきっとどこかで、確信めいたものがあったんだと思う。だから制止の手も無視して、強引にその瓶の蓋を開けてしまった。

 もう茉莉華は腕を離して、たぶん怒っている。

 僕は小さく「ごめん、茉莉華……」と謝った。茉莉華は「公生くんが、興味本位でそんなことする人じゃないってわかってるから。だからきっと、何かあるんでしょう?」と優しく言ってくれる。

 僕は頷いて、その中に入っている手紙を取り出した。それは数枚に渡って綴られた、誰かに宛てた手紙。僕はその一枚目の冒頭を読んで、ようやく、全てを思い出した。

 とてもとても長かったと、僕は思った。

 果たしてその手紙の一行目に書かれていた言葉は、

『拝啓 親愛なる小鳥遊公生さんと、小鳥遊茉莉華さんへ』
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