記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
2.それはとっても嬉しいな
 それから数日が過ぎて、五月になった。華怜は修学旅行の日が近付くにつれて、僕に気まずい表情を送ることが多くなり、いったいどうしたんだろうと心配になる。
 そういえば手紙の内容の中に『これから先、私が公生さんに変な態度を取っちゃったら、あの一週間の出来事を思い返してあげて。たぶん私は素直になんてなれないと思うから、公生さんの方から歩み寄ってくれると嬉しいな』と書かれていたことを思い出した。
 華怜が伝えたかったことは、もしかすると今のことを言っているのだろうか。
 僕は大学二年の日々を思い返す。
 あの時の華怜は、何をするにも僕にべったりとくっついてきた。大学に行くと言えば「私も行きます」と言って僕を困らせたし、ドラッグストアへ行くと言えば「ここにいてください」と甘えてきた。
 何か隠し事があれば露骨に様子が変になるしで、あの頃は大変だった。だけど今にして思えば全てが懐かしい思い出だ。
 今、僕たちに妙な態度を取っているのは、もしかすると修学旅行へ行きたくないからなのかもしれない。あの時と同じく、僕と離れるのが嫌なのかも。やっぱり自惚れかと思ったけど、華怜のことだから本気でそう思っていても不思議じゃない。
 修学旅行へ行けば、一週間は僕と会えなくなってしまう。それを華怜は耐えることができるのだろうか。今までもずっと僕にべったりだったし、そういえば中学の修学旅行に行った時も渋々といった感じだった。
 あの修学旅行は三泊四日だったけど、時間があるときは逐一電話をかけてきて本当に大変だった。丁寧に言葉を返さなきゃムスッとするし。でも、僕はそれを楽しいと思っていた。
 しかし今回の修学旅行は海外だ。携帯を持って行くのはいいけど、聞いたところによると使用は禁止らしいし、まる一週間僕と会話もできなくなる。
 果たしてそれが華怜に出来るのかと考えて、無理だなと思った。それは華怜がじゃなくて、他ならない僕がだ。心配で心配でたまらなくなって、仕事も手につかなくなりそうだ。
 それに……
『飛行機は、怖いですから……』
 あのとき言っていた華怜の言葉を思い出す。とても思いつめていて、今も昔も心が大きく締め付けられた。
『じゃあ、飛行機は使わないことにしよう』
『危ないですから、絶対に乗らないでくださいね』
『絶対に乗らないよ』
 飛行機事故。
 久しぶりに思い出した。あれだけの出来事があったというのに、今もなお大空に巨大な両翼が飛んでいる。
 背筋がとても寒くなった。
 やらなきゃいけない仕事があるのに、全然手につかない。どうしたものかと思っていると、部屋の扉がノックされた。
 この控えめな音は華怜だなと思い、僕は「入っていいよ」と返す。ここ最近は僕の部屋にすら来なかったから、珍しいことだった。
 華怜はわずかにドアを開けて顔を覗かせる。入ってきやすいようにと、僕は微笑んだ。それに安心して、こちらへてくてくとやってくる。
 椅子を勧めると、すぐに座った。
 長い髪が揺れて、シャンプーの柑橘系の香りが漂ってくる。
「お風呂、もう入ったの?」
「入ったよー。今、お母さんが入ってる」
 そう言った後、僕の仕事机や周りの本棚をいつものように見回す。
「お父さんの部屋、本が増えたね」
「本が好きだからね。華怜の部屋も、本が増えたんじゃない?」
「私は、お母さんが読め読めって言ったのを貸してもらってるから」
 茉莉華は本を勧めるのが大好きだから、面白い本があれば全部華怜に回している。それで華怜も本が好きになって、たまに小説の感想を言い合っていた。
「ずっと気になってたんだけど、聞いていい?」
「どうしたの?」
「お母さんが大切にしてる名瀬雪菜の小説って、奈雪さんが昔書いた本なの?」
「そうだけど、どうして分かったの?」
「だって、桜庭さんって旧姓が七瀬さんでしょ? 七瀬奈雪、名瀬雪菜。ほら、びっくりするほど似てる」
 この分かりやすい真実を、僕は全然気がついていなかったんだということを思い出した。分かりやすすぎて、自分で笑えてくる。
「奈雪さんとコウちゃん、こっちに戻って来られてよかったね」
「それは本当によかったよ」
奈雪さんと公介くんは、公介くんが中学へ上がる時にこちらへ戻ってきた。夫婦で仲直りをすることができて、今は幸せに暮らしている。
 とりとめのない会話を、僕たちは続ける。
「最近、お仕事大変?」
「今は比較的楽な方かな。今度出る小説は、もう出来上がってるから」
「それ早く読みたい。発売したら真っ先に買いに行くからね」
 出版する小説は、発売するまで家族には見せないようにしている。買ってからのお楽しみというやつだ。最初の方は茉莉華も華怜もゴネていたけど、僕が曲げないと分かってからは素直に発売日を待つようになってくれた。
 そしてようやく華怜は、本題を切り出してくる。
「最近、変な態度取っちゃってごめんね」
「自覚あったんだ」
「そりゃあ、めんどくさい女の子だなって自分でわかってるから」
 僕がくすりと笑うと、華怜も微笑んだ。
「不安な部分もあるけど、楽しみなところもちゃんとあるんだよ。佑香と、久しぶりに同じクラスになれたから」
「佑香ちゃんって、幼稚園の頃からのお友だちだっけ?」
「そうそう。中学の頃は一度も同じクラスじゃなかったけど、今年は同じクラスなの。修学旅行も一緒に回るから楽しみなんだぁ」
 その佑香ちゃんという子に、華怜は率先してファザコンと呼ばれていた気がする。たぶんお互いの愛情表現みたいなものなんだろう。
「本場の中華料理、実はちょっと楽しみ」
「感想とかいろいろ聞かせてよ」
「お土産ちゃんと買ってくるよ。なにがいい?」
「調味料とか買ってきたら、お母さんは喜ぶんじゃないかな」
「お母さんのじゃなくて、今はお父さんに聞いてるの」
「僕は、華怜から貰うものならなんでも嬉しいよ。でも出来るだけ、形に残るものがいいかな」
 普段身につけていられるものなら、尚嬉しい。
 その返答に満足したのか、華怜は笑顔になった。
「お父さんが喜びそうなものを厳選して買ってくるね」
「お土産選びに必死になって、観光を忘れちゃダメだよ?」
「分かってるって」
 楽しそうにしている華怜を見て、やっぱり親である僕はしっかりしなきゃと改めて思った。お父さんなら、しっかり華怜のことを見送らなきゃいけない。
 いずれ結婚もするんだから、こんなことで迷ってちゃダメだ。
 華怜は「いいこと思いついた!」と言って両手を叩いた。こういう時の華怜は、大抵突拍子のないことを口走る。
「お父さんも私と一緒に香港に来なよ。きっと楽しいよ?」
 僕は苦笑する。
「それはダメでしょ。それに、その日は外せない用事があるから」
「えー、いい提案だと思ったのになぁ」
 本気で悔しがる華怜が面白い。
 そうこうしているうちに、向こうから脱衣場のドアが開く音が聞こえてきて、そろそろ風呂に入る用意をしなきゃなと思い立った。
 華怜も、もう話は済んだのか椅子から立ち上がる。
「ごめんね、話聞いてもらっちゃって」
「ううん、お父さんが相談に乗れることなら、なんでも言っていいよ」
「やっぱり、優しいねお父さん。ありがと」
 最後にそう言って、華怜は部屋のドアに手をかけた。僕はその華怜へ言葉を投げる。
「実はお父さんは、華怜が生まれるずっと前から、華怜のことを知ってたんだよ」
「なにそれ」と、華怜は微笑む。僕もおかしくなって、笑みをこぼした。
「お母さんも、ずっと前から華怜のことを知っていた。華怜は、お父さんとお母さんを出会わせてくれたんだ」
 あの時ああしていればという、もしもの出来事は無数にあるのかもしれないけど、僕らが経験した道は一つだけ。その道に華怜がいなかったら、危うく全てがすれ違っていたかもしれない。
 しかしいろんな出来事が積み重なって、いろんな出来事がそれを揺るがしたとしても決して変わったりしないものが、人々の言う運命というものなのかもしれない。
 華怜は手紙の中で、運命は本当にあるんだと言っていた。もしかすると僕と茉莉華が出会うことこそが運命で、華怜が生まれてくるのも運命だったのかもしれない。そんなロマンチックなことを考えていた僕は、途端におかしくなって小さく笑った。
「変なお父さん」
「変だよね」
「でも、私がお父さんのために活躍出来たなら、それはとっても嬉しいな」
「大活躍だったよ」
「えへへ」
「ありがとね、華怜」
 華怜は頬を染めながら照れを見せる。
 話はこれで終わりだ。
 しかしなかなか取っ手を動かさなくて、どうしたのかと思っているとこちらへ振り返ってくる。
 その表情は心なしか、不安に彩られている気がした。
「お父さんは、私がしばらくそばにいないと寂しい……?」
 僕はまた、手紙の内容を思い返していた。
『たぶん私は素直になんてなれないと思うから、公生さんの方から歩み寄ってくれると嬉しいな』
 ほぼ無意識的に、僕は思っていたことを口に出してしまう。
「とっても寂しいよ。華怜がそばにいないのは」
 親として笑顔で見送らなきゃいけないんだろうけど、僕はそれが出来なかった。少しだけ悲しい表情を作ってしまって、だけど華怜は僕の答えに満足したように微笑んだ。
「そっかぁ、寂しいか。わかったよ、ありがとねお父さん」
 その言葉を言った後、今度こそ華怜は部屋を出ていった。それからの僕は、これでよかったのかと何度も自分に問いかけたけど、華怜のいつも通りの笑顔を見るたびにこれでよかったんだと思い直す。
 とりあえず、華怜がいつも通りになってくれてよかった。
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