記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
9.あなたに伝えたいこと
「へぇー、いい趣味してるじゃん。なになに〜」
「やめてください! それは見ないでください!」
取り上げようと腕を伸ばしても何度もかわされて、僕はこの人を部屋にあげたことを後悔し始めた。
それは、僕のずっと隠してきた黒歴史みたいなものだから。
いくら片付けを手伝ってくれたからといって、そんな簡単に見せられるものじゃ……
「ほい、返すよ」
「へ?」
謎の女性は、案外あっさりと返してくれた。その理由がすぐにわかってしまった僕は、やっぱり、これ以上小説家なんてものを目指すのはやめようと思った。
これから先に同じことがあったとしたら、同じように傷ついて、ただ結局後悔するだけになるだろうから。
「君のそれ、〜だったで終わる文章が多いね。もちろんそういう演出もあるけど、もう少し工夫したほうがいいと思う。さすがにテンポが悪くなるからね。それと一人称の物語なんだから、三人称の視点を混在させてはいけないよ。君の物語の登場する主人公は、現在のことしかわからないんだから」
諦めようとしていたから、そんなアドバイスが飛んできたことに驚きつつ僕は顔を上げた。
謎の女性は顎に手を当てて、考える仕草を取っている。
「とは言っても、ストーリーは面白そうだね。病を背負った女の子と出会って、やがて打ち解けていく。結末はなんとなく予想できたけど、それが分からないように伏線を張ったりすれば、もっと良くなるんじゃないかな。一見関係のないことが伏線だったり、細かなミスリードを付けたりすると遊びが出ると思うよ」
気付いたらメモ帳を取り出していて、彼女の言ったアドバイスを書き留めていた。
ダメな部分、良い部分、そもそもキャラクターの性格に気を使ったほうがいいなど、色々なことを教えてくれた。時には実際の小説を例に挙げてくれた時もあった。
面白くないから読むのをやめたんだと思っていたのに、本当によくわからない人だ。こんなに真剣に読んでくれていたなんて、思っていなかった。
「とまあ、こんな感じかなぁ」
一通り説明が終わったのか、大きく伸びをした。いつの間にかメモ用紙を四枚も使っていて、僕もそんなに集中していたんだと驚く。
「あの、ありがとうございます!」
そうお礼を言うと彼女は微笑んで「いいよいいよ、これもお手伝いの延長だから」と言った。
優しい人なんだなと、素直に感じた。
彼女は、綺麗に片付いた本棚の右上あたりを指差す。
「その作家も、最初はダメダメだったみたいだけど、なんとかデビューできたからね。君も頑張ればデビュー出来るよ。とはいっても、最近は不調で人気が落ちてるんだけどね」
どうして彼女がそこまで小説に詳しいのか、どうしてその作家について詳しいのか。そんな疑問が浮かんだけど、僕の中ではすぐに弾けた。
それは違う、そう思ったからだ。
「名瀬雪菜さんの小説は、今でも面白いです。確かに全盛期と比べて見劣りするかもしれませんけど、表現力や構成力は全然衰えてません」
それは僕が本当にそう思っていたことで、だから本音をぶつけてしまったことが恥ずかしくなった。
初対面の人にこんな力説をしてしまえば、絶対に引かれてしまう。こいつ、どんだけ名瀬先生のことが好きなんだよ、と思われたはずだ。
終わったな、僕は素直にそう思った。
だからそのあとの彼女の表情は予想外で、僕はまた疑問に思うことが増えてしまった。
彼女は驚いた表情を浮かべて、小さく微笑んだ。
「君は名瀬雪菜のことが大好きなんだね」
「はい……」
「そっか……きっと本人がそれを知ったら、とっても喜ぶんじゃないかな」
そんなことはないと思った。僕はただの一読者にすぎなくて、そんな人はこの広い世界にはいくらでもいる。
僕より名瀬雪菜のことを好きな人なんて、それこそたくさんいるだろう。
だから、これは一読者の戯言にしか過ぎないのだ。
それからは短い世間話をして、彼女は部屋を出ていった。そういえばお互いに自己紹介をしていなかったなと気付いたのは、夕食に引っ越し蕎麦を食べていた時。
僕は、本当に誰かもわからない人を部屋にあげていたのだ。
彼女を七瀬奈雪であると認識したのは、大学の入学式の日。
キャンパスを一人で歩いていると、突然後ろから女性に話しかけられた。
「やあ少年。また会ったね」
話しかけてくれた先輩は、気さくな笑顔を見せてくれた。その後に先輩が隣の部屋に住んでいるということを知って、また驚いた。
必要最低限の科目しか取らないから部屋にいることが多いらしく、だからあれから一度もすれ違わなかったらしい。
それが僕と先輩との出会い。たまに小説に関してアドバイスをもらったり、支えてもらったりしている……のはちょっと前までの話だ。今は、ただの隣人に過ぎない。
名瀬雪菜は、新作の小説を出版してから二年間、一冊も本を出さなかった。引退したのではないかと巷で噂になり気が気ではなかったけど、今年になってようやく一冊の本を出して、それは前作よりも多く売れた。
そしてどんな心境の変化なのかは分からないけれど、今度駅前の本屋でサイン会をすることになった。
今まで顔出しすらしてこなかったから、僕はそれを聞いてもちろん喜んだ。
だってこの街でサイン会をするということは、おそらく名瀬雪菜はこの街の出身だということだから。
一度だけ会って、話しておきたかったのだ。
それはどうしようもなく一方的なものだけれど、心の底からずっと伝えたかった。
ありがとうと。
あなたのおかげで、小説家になるという夢が出来ました。
挫折して折れそうになったこともあったけど、支えてくれる好きな人が出来ました、と。
「やめてください! それは見ないでください!」
取り上げようと腕を伸ばしても何度もかわされて、僕はこの人を部屋にあげたことを後悔し始めた。
それは、僕のずっと隠してきた黒歴史みたいなものだから。
いくら片付けを手伝ってくれたからといって、そんな簡単に見せられるものじゃ……
「ほい、返すよ」
「へ?」
謎の女性は、案外あっさりと返してくれた。その理由がすぐにわかってしまった僕は、やっぱり、これ以上小説家なんてものを目指すのはやめようと思った。
これから先に同じことがあったとしたら、同じように傷ついて、ただ結局後悔するだけになるだろうから。
「君のそれ、〜だったで終わる文章が多いね。もちろんそういう演出もあるけど、もう少し工夫したほうがいいと思う。さすがにテンポが悪くなるからね。それと一人称の物語なんだから、三人称の視点を混在させてはいけないよ。君の物語の登場する主人公は、現在のことしかわからないんだから」
諦めようとしていたから、そんなアドバイスが飛んできたことに驚きつつ僕は顔を上げた。
謎の女性は顎に手を当てて、考える仕草を取っている。
「とは言っても、ストーリーは面白そうだね。病を背負った女の子と出会って、やがて打ち解けていく。結末はなんとなく予想できたけど、それが分からないように伏線を張ったりすれば、もっと良くなるんじゃないかな。一見関係のないことが伏線だったり、細かなミスリードを付けたりすると遊びが出ると思うよ」
気付いたらメモ帳を取り出していて、彼女の言ったアドバイスを書き留めていた。
ダメな部分、良い部分、そもそもキャラクターの性格に気を使ったほうがいいなど、色々なことを教えてくれた。時には実際の小説を例に挙げてくれた時もあった。
面白くないから読むのをやめたんだと思っていたのに、本当によくわからない人だ。こんなに真剣に読んでくれていたなんて、思っていなかった。
「とまあ、こんな感じかなぁ」
一通り説明が終わったのか、大きく伸びをした。いつの間にかメモ用紙を四枚も使っていて、僕もそんなに集中していたんだと驚く。
「あの、ありがとうございます!」
そうお礼を言うと彼女は微笑んで「いいよいいよ、これもお手伝いの延長だから」と言った。
優しい人なんだなと、素直に感じた。
彼女は、綺麗に片付いた本棚の右上あたりを指差す。
「その作家も、最初はダメダメだったみたいだけど、なんとかデビューできたからね。君も頑張ればデビュー出来るよ。とはいっても、最近は不調で人気が落ちてるんだけどね」
どうして彼女がそこまで小説に詳しいのか、どうしてその作家について詳しいのか。そんな疑問が浮かんだけど、僕の中ではすぐに弾けた。
それは違う、そう思ったからだ。
「名瀬雪菜さんの小説は、今でも面白いです。確かに全盛期と比べて見劣りするかもしれませんけど、表現力や構成力は全然衰えてません」
それは僕が本当にそう思っていたことで、だから本音をぶつけてしまったことが恥ずかしくなった。
初対面の人にこんな力説をしてしまえば、絶対に引かれてしまう。こいつ、どんだけ名瀬先生のことが好きなんだよ、と思われたはずだ。
終わったな、僕は素直にそう思った。
だからそのあとの彼女の表情は予想外で、僕はまた疑問に思うことが増えてしまった。
彼女は驚いた表情を浮かべて、小さく微笑んだ。
「君は名瀬雪菜のことが大好きなんだね」
「はい……」
「そっか……きっと本人がそれを知ったら、とっても喜ぶんじゃないかな」
そんなことはないと思った。僕はただの一読者にすぎなくて、そんな人はこの広い世界にはいくらでもいる。
僕より名瀬雪菜のことを好きな人なんて、それこそたくさんいるだろう。
だから、これは一読者の戯言にしか過ぎないのだ。
それからは短い世間話をして、彼女は部屋を出ていった。そういえばお互いに自己紹介をしていなかったなと気付いたのは、夕食に引っ越し蕎麦を食べていた時。
僕は、本当に誰かもわからない人を部屋にあげていたのだ。
彼女を七瀬奈雪であると認識したのは、大学の入学式の日。
キャンパスを一人で歩いていると、突然後ろから女性に話しかけられた。
「やあ少年。また会ったね」
話しかけてくれた先輩は、気さくな笑顔を見せてくれた。その後に先輩が隣の部屋に住んでいるということを知って、また驚いた。
必要最低限の科目しか取らないから部屋にいることが多いらしく、だからあれから一度もすれ違わなかったらしい。
それが僕と先輩との出会い。たまに小説に関してアドバイスをもらったり、支えてもらったりしている……のはちょっと前までの話だ。今は、ただの隣人に過ぎない。
名瀬雪菜は、新作の小説を出版してから二年間、一冊も本を出さなかった。引退したのではないかと巷で噂になり気が気ではなかったけど、今年になってようやく一冊の本を出して、それは前作よりも多く売れた。
そしてどんな心境の変化なのかは分からないけれど、今度駅前の本屋でサイン会をすることになった。
今まで顔出しすらしてこなかったから、僕はそれを聞いてもちろん喜んだ。
だってこの街でサイン会をするということは、おそらく名瀬雪菜はこの街の出身だということだから。
一度だけ会って、話しておきたかったのだ。
それはどうしようもなく一方的なものだけれど、心の底からずっと伝えたかった。
ありがとうと。
あなたのおかげで、小説家になるという夢が出来ました。
挫折して折れそうになったこともあったけど、支えてくれる好きな人が出来ました、と。