〜starting over〜
解っている。
杏の歌声は断トツだ。
度胸はあるし、メンタル、フィジカルも強い。
注意した部分の修正能力も高い。
声音の心地良さだけでなく表現力もあり、視聴者側の歌詞への感情移入がし易い。
何より、居るにいるだけで、目が惹かれる存在感がある。
そういや、バイトしてる時も、勤務先でよく声を掛けられてる様子だったな。

Museにメンバー補充案が出た時、家で歌を口ずさむ杏心地良い声が脳裏を掠め、即座に振り払った。
この世界に、世話になった人から預かった大事な娘を引き入れたくなかった。
華やかな世界だが、光が大きい分、影の部分も深淵のように深い。
足の引っ張り合いは勿論、知名度があがると餌食にもされる。
そんな世界に引き込みたくはない。
多感な10代を、ただ普通に、普通の女の子として過ごしてほしい。
さて。
どうやって落とそうか。
そう思ってたのに、周りの杏推しが強くて、俺の意見が通らない。
プロデューサー俺だけど?
なのに……俺以外の審査員が全員一致で杏推し。
杏の何が不服かと聞かれ、ダンスがダメだと言っても、最初の時からの成長率の高さにこれからの期待を込めて社長と奈々の猛プッシュでMuse加入が決まってしまった。
最後まで反対しきれなかったのは、杏の意思を尊重したからじゃない。
周りに押し切られた、なんて、俺の言い訳だ。
心のどこかで、現メンバーと遜色ない杏を、ステージで杏という人間の歌を具現化してみたいという音楽家の創作意欲を掻き立てられた所為だ。

まぁ、歌が上手いから必ずしも売れる訳じゃないし。
運と時代の流れ、自分に合った曲との出会い。
色々なタイミングが重要だ。
果たして、下火となっている人気を取り戻せるのか……。
オーディションの杏を思い浮かべ、思いを馳せた。
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