Monkey-puzzle
黒縁眼鏡と給湯室
◇
結局次の日から、亨と挨拶回りに出る事が多かった渋谷とはすれ違いの日々で。
『初めてじゃないよ』
事の真相を聞けぬまま、一週間が過ぎた。
誰も居ない書庫整理部の奥で、参考資料を取りにくるついでに仕事用のスマホではなく、自分のを開くのが日課になってるここ最近。
橘さんとはあれ以来会ってはいないけれど、メッセージでのやり取りは続いている。
『今日はパリに来てマース!』
画像やスタンプ付きのメッセが橘さんから頻繁に送られてくるのだけれど。
『ピカソ美術館の側にあるカフェ。ユッケみたいのが超旨い!』
ちょっとツウな感じの情報だったり場所だったりして、面白い。
イベントを起案する意欲に駆られると言うか、そこから想像して「こんなイベントをしてみたい」とか「あのイベントこんな感じに提案してみようか」とか楽しい想像が広がって私にとっては楽しみな一時になっていた。
…今日はパリからチェコに飛ぶのか。
忙しいな、橘さん。売れっ子の調香師だもんね。
『木元さんが好きそうな香りを発見』
薄い赤色の可愛い小瓶に入った画像にふと頬を緩めた。
『近々お届けさせて』
…嬉しい。こうやって気にかけてくれて。
「みーっけ。サボり過ぎだから真理さん。それにしてもマメだねー智ちゃん。」
し、渋谷?!
「あ、あんた何でここに…というか、何で橘さんだって…」
咄嗟にスマホを隠すと、楽しそうに含み笑い。
「ああ、当たり?カマかけてみただけなんですけど」
こ、こいつ…
「ちょっと参考資料探しに来たついでに自分のスマホチェックしていただけだよ。」
「ふ~ん…資料何?探すの手伝うよ?」
「結構です」
腕をのばして取ろうとした資料を先に棚から抜かれて、どうも、と仏頂面のまま渋谷の手から受け取った。
そうだ、ちょうど良かったから聞こうかな…『初めてじゃない』の話を。
「ねえ…渋谷。『私と話したの初めてじゃない』ってこの前、言ってたでしょ?」
資料を開いて目を落とす。字の羅列を追いかけ出した視界の端に渋谷が映ったけど、やっぱり黒縁眼鏡のせいで表情までは分からない。
「あれから考えてみたけど、その…どうしても思い出せなくて。」
「そう…。」
「ごめん、失礼だとは思うんだけど…。」
尻窄みの相槌に改めて申し訳ないと言う気持ちが込み上げて、読んでいた資料から目をあげて渋谷の方に向き直った。
予想に反して、渋谷はどこか嬉しそうで、優しい笑顔。瞬間的にドキリと鼓動が音を立てた。
「あの後ずっと考えてたの?」
「う、うん、まあ…。いつ会ったのかなって。」
「ふ~ん…じゃあ、教えてあげよっか。」
内緒話をするかの如く、渋谷の顔が耳に近づいてほんの少しその唇が耳朶に触れる。
「…ずっとそうやって俺の事考えてろよ。」
吐息まじりの声に心音が重厚な音を立てて跳ね上がった。
カッとなったのが身体なのか頭なのかは分からない。けれど、反射的に渋谷のみぞおちに肘鉄を入れたのは事実。
「ぐっ!真理さん勘弁してよ…何で忘れられてる俺がこんな目に…」
「う、うるさい!用事が済んだから戻る!」
熱くなる全身とうるさく早い鼓動を悟られたくなくて、書類を棚に戻してから背を向けたら、後ろから腕をつかまれた。
「…いいよ、忘れてて。“今の俺”が“真理さんにとっての俺”って方が好都合だから。」
「だから気にしないで?」と先に立ち去っていく渋谷。
私に気を使ったのかな…?
それとも本音?
その後ろ姿に、思わず息を吐いた。
…“今の渋谷”については、机を並べて仕事をする様になって色々知った…けれど。
彼は本当に仕事が出来るし、早い。
そして、それをスマートに簡単にこなしているように見える。
けれど、それは彼自身の雰囲気が明るくて人懐っこい上に機転が利くからそう見えるだけで、実際はクライアントの情報を隅から隅まで頭に叩き込んでいるし、イベントに関するデータの収集や勉強も誰よりも怠らない。
山田部長の話だとここ二ヶ月、資料室でワークショップ関係の過去資料を熱心に読んでいる姿を頻繁に見かけていると聞いた。それだって恐らく、3課の分野をより学ぶ為の努力だと思う。
つまり、彼の働きぶり全てが、努力の賜物というわけで。
更に、そこに『社内の人間関係も円滑』と言う私には無いスペックを持っている。
後輩ではあるけれど、仕事に関して信頼出来る凄い人だと思う。
それともう一つ…。
あの日以来、いきつけの居酒屋でシゲさんとカツさんに絡まれている渋谷と時々出くわすようになった。
けれど、私の中で、全く悪い気はしなくて、何度も二人で肩を並べて飲んだりもした。
その帰りは決まってあの『取引』が行なわれ、マンションまで送られて…部屋に「入れろ」「入れない」の攻防を一通り繰り広げてから解散。
仕事から離れた渋谷はいまいち何を考えているのかわからないけれど、一緒に居て戸惑う事はあっても、嫌悪感を抱く事はないし恐さも感じない。
私の中で、彼は一体どういう立ち位置なのだろうか。
渋谷が3課に異動してきて数ヶ月。
いつの間にか、そんな風に彼の事を考える瞬間が増えた。
結局次の日から、亨と挨拶回りに出る事が多かった渋谷とはすれ違いの日々で。
『初めてじゃないよ』
事の真相を聞けぬまま、一週間が過ぎた。
誰も居ない書庫整理部の奥で、参考資料を取りにくるついでに仕事用のスマホではなく、自分のを開くのが日課になってるここ最近。
橘さんとはあれ以来会ってはいないけれど、メッセージでのやり取りは続いている。
『今日はパリに来てマース!』
画像やスタンプ付きのメッセが橘さんから頻繁に送られてくるのだけれど。
『ピカソ美術館の側にあるカフェ。ユッケみたいのが超旨い!』
ちょっとツウな感じの情報だったり場所だったりして、面白い。
イベントを起案する意欲に駆られると言うか、そこから想像して「こんなイベントをしてみたい」とか「あのイベントこんな感じに提案してみようか」とか楽しい想像が広がって私にとっては楽しみな一時になっていた。
…今日はパリからチェコに飛ぶのか。
忙しいな、橘さん。売れっ子の調香師だもんね。
『木元さんが好きそうな香りを発見』
薄い赤色の可愛い小瓶に入った画像にふと頬を緩めた。
『近々お届けさせて』
…嬉しい。こうやって気にかけてくれて。
「みーっけ。サボり過ぎだから真理さん。それにしてもマメだねー智ちゃん。」
し、渋谷?!
「あ、あんた何でここに…というか、何で橘さんだって…」
咄嗟にスマホを隠すと、楽しそうに含み笑い。
「ああ、当たり?カマかけてみただけなんですけど」
こ、こいつ…
「ちょっと参考資料探しに来たついでに自分のスマホチェックしていただけだよ。」
「ふ~ん…資料何?探すの手伝うよ?」
「結構です」
腕をのばして取ろうとした資料を先に棚から抜かれて、どうも、と仏頂面のまま渋谷の手から受け取った。
そうだ、ちょうど良かったから聞こうかな…『初めてじゃない』の話を。
「ねえ…渋谷。『私と話したの初めてじゃない』ってこの前、言ってたでしょ?」
資料を開いて目を落とす。字の羅列を追いかけ出した視界の端に渋谷が映ったけど、やっぱり黒縁眼鏡のせいで表情までは分からない。
「あれから考えてみたけど、その…どうしても思い出せなくて。」
「そう…。」
「ごめん、失礼だとは思うんだけど…。」
尻窄みの相槌に改めて申し訳ないと言う気持ちが込み上げて、読んでいた資料から目をあげて渋谷の方に向き直った。
予想に反して、渋谷はどこか嬉しそうで、優しい笑顔。瞬間的にドキリと鼓動が音を立てた。
「あの後ずっと考えてたの?」
「う、うん、まあ…。いつ会ったのかなって。」
「ふ~ん…じゃあ、教えてあげよっか。」
内緒話をするかの如く、渋谷の顔が耳に近づいてほんの少しその唇が耳朶に触れる。
「…ずっとそうやって俺の事考えてろよ。」
吐息まじりの声に心音が重厚な音を立てて跳ね上がった。
カッとなったのが身体なのか頭なのかは分からない。けれど、反射的に渋谷のみぞおちに肘鉄を入れたのは事実。
「ぐっ!真理さん勘弁してよ…何で忘れられてる俺がこんな目に…」
「う、うるさい!用事が済んだから戻る!」
熱くなる全身とうるさく早い鼓動を悟られたくなくて、書類を棚に戻してから背を向けたら、後ろから腕をつかまれた。
「…いいよ、忘れてて。“今の俺”が“真理さんにとっての俺”って方が好都合だから。」
「だから気にしないで?」と先に立ち去っていく渋谷。
私に気を使ったのかな…?
それとも本音?
その後ろ姿に、思わず息を吐いた。
…“今の渋谷”については、机を並べて仕事をする様になって色々知った…けれど。
彼は本当に仕事が出来るし、早い。
そして、それをスマートに簡単にこなしているように見える。
けれど、それは彼自身の雰囲気が明るくて人懐っこい上に機転が利くからそう見えるだけで、実際はクライアントの情報を隅から隅まで頭に叩き込んでいるし、イベントに関するデータの収集や勉強も誰よりも怠らない。
山田部長の話だとここ二ヶ月、資料室でワークショップ関係の過去資料を熱心に読んでいる姿を頻繁に見かけていると聞いた。それだって恐らく、3課の分野をより学ぶ為の努力だと思う。
つまり、彼の働きぶり全てが、努力の賜物というわけで。
更に、そこに『社内の人間関係も円滑』と言う私には無いスペックを持っている。
後輩ではあるけれど、仕事に関して信頼出来る凄い人だと思う。
それともう一つ…。
あの日以来、いきつけの居酒屋でシゲさんとカツさんに絡まれている渋谷と時々出くわすようになった。
けれど、私の中で、全く悪い気はしなくて、何度も二人で肩を並べて飲んだりもした。
その帰りは決まってあの『取引』が行なわれ、マンションまで送られて…部屋に「入れろ」「入れない」の攻防を一通り繰り広げてから解散。
仕事から離れた渋谷はいまいち何を考えているのかわからないけれど、一緒に居て戸惑う事はあっても、嫌悪感を抱く事はないし恐さも感じない。
私の中で、彼は一体どういう立ち位置なのだろうか。
渋谷が3課に異動してきて数ヶ月。
いつの間にか、そんな風に彼の事を考える瞬間が増えた。