Monkey-puzzle
渋谷が居ても、昨日の話は特にしない。いつも通り仕事をする。
自分にそう言い聞かせながら、少し緊張気味に入っていった3課。
渋谷は外回りで出勤が遅くなるとボードに記載されていて、何となく拍子抜けしながら自分の席に座る。
それは良いんだけど…。
「おは…よう、ございます。」
いつもとどこか雰囲気が違う課内。
私、注目されてる?
いつにも増して浴びせられる視線が痛い。
気になって目を向けると、皆あからさまに顔を反らす。
聞こえないけど、何かをささやき合う声があちらこちらでしている。
…雰囲気悪すぎる。
陰口言うならもっと違う所で言えばいいのに。
あ~…もう。仕事しよ。
タブレットとパソコンを同時に立ち上げた所で、亨が目の前に立った。
「真理、ちょっといいか?」
それに怪訝な顔を向けたけど、神妙な面持ちが従わなければいけないと示していて、席を立って廊下に出た。
そのまま小会議室へ二人で入る。ドアを閉めた途端、溜め息と共に亨が振り返った。
「お前、東栄デパートの『香りのワークショップ』、担当を外れてもらう。」
思考回路が一瞬にして全て一度停止したって思う。
その位、驚いた。
「な、何言ってんの?!私、チームリーダーだよ?!後半月でもう開催初日なのに…」
「…覚えが無いってことはねーだろ?」
食って掛かる私に亨が顔をしかめた。
「ど、どういう事…?」
「お前さ、クライアントとどういう関係だ?今。」
クライアントって…橘さん?
「話によると、だいぶ口説かれてたらしいな。
課内でかなり噂が立っててヤバいんだよ。お前が『枕営業してる』って。」
「だ、誰がそんな…」
「発信元はわからない。でも、どっかからメールが送られて来て、それが課内に回ったみたいでさ。」
亨がメールをプリントアウトした紙を私に見せる。
そこには発信元不明のまま“木元真理子は枕営業をしている”と用件だけが記されていた。
何…これ…。
目線を床に向けて、唇を噛み締めた。拳を痛い程に握りしめる。
納得いかないけど、100歩譲って私自身にそう言う噂が立つのはまだいい。
だけど。
橘さんまで侮辱されてる気がして、どうしても許せない。
…どう考えても私のミスだ。
もちろん、メールを送って課内メールにバラまいた人は悪いけど、それは私にスキがあったから
橘さんにご迷惑をかけてしまった。
そう反省している最中だと言うのに、何故か脳裏に浮かぶのは渋谷の顔。
課内のパソコンやスマホに送られているとしたら、あいつの所にも送られているのかな…。当然、見るよね。
「俺は、お前がそんな事しないってわかってるけどさ…」
「…。」
目の前の亨の言葉を聞き逃すほど、渋谷の事を考えていたんだって思う。
「…何で黙ってんだよ。お前まさか本当に?!」
肩を乱暴に掴まれて我に返って、初めて亨の異変に気が付いた。
目が少し血走り睨みつける様に私を見る真剣な顔が、昨日よりも更に凄みを増して威圧的な雰囲気を醸し出している。
「と、亨…?」
かろうじて呼んだ声は、きっと彼には届いていない。更に肩を抑える手に力がこもった。
「嘘だろ?お前が枕営業とかさ…。」
「す、する訳ないでしょ?」
「じゃあ、今、何考えてたんだよ!」
どうしよう…怖い。ゾクリと背中が音を立てる。
長年一緒に居たけど、こんな亨は初めて見た。
「お前、最近何考えてるかさっぱりなんだよ。勝手に俺から離れて行って…」
「か、勝手にって…」
「俺はお前と別れるなんて一言も言ってない!」
「ちょ、ちょっと…待ってよ。」
抱き寄せられそうになった体を思わず両手で拒んだら、手首を強い力で掴まれた。
「お前に俺が拒めると思ってんの?
どんだけ皆の中にお前を入れるのに俺が面倒みてやってると思ってんだよ。お前は俺から離れたら誰からも相手にされないんだよ。いい加減自覚しろ、自分がどんだけ嫌われ者か。お前はさ…俺の側に居て、仕事してりゃいいんだよ」
放たれた最後の言葉でああ…そうか、と全てを悟る。
亨は…私の事が好きなんて感情、これっぽっちも無かったんだ。
ただ、“自分の為に”私が欲しかっただけ。
こんなに、長年一緒に居たのに…。
亨でさえ、欲しかったのは“私”じゃない。
“私”を見て好きになってくれるなんて、そんなの…居るわけないって事…
そうだよね、亨の言うとおり、私は社内の“嫌われ者“だもんね。
目頭が熱くなり、身体の力が急に抜けた。
近づいて来る亨の顔に、何も感じない。そのまままぶたを閉じた。