Monkey-puzzle
◇◇
「渋谷さんすみません、送っていただいて。」
イタリアンレストランを出て田所さんのアパートの前で車を停車させた所で、フロントガラスにポツリ、ポツリと雨粒がついた。
さっき、カーラジオの天気予報で夜は雨だって言ってたもんな。
「少しならここに停められるので、良かったらあがって行きませんか?」
暗い車内にアパートの前の街灯の光が入り込んで、田所さんの黒髪に艶を持たせる。酔いがまだ少し残っているのかいつもより隙がある彼女の微笑みは色気を含む。
「車、停められるんですね。良かった、もう少し田所さんと話していたかったから。」
俺の言葉に、照れくさそうにそして恥ずかしそうに俯く。
…本当に可愛いね。
人当たりも良くて仕事もきっちりこなす器用な人。その上こうやって可愛い。
仕事が出来ても不器用で人に優しい言葉をかけてあげるのが苦手な上に口説くと怒り出す、ピンヒールにコケる誰かさんとは大違い。
外へ出ようとドアを開けて腰を浮かせた田所さんの腕をひっぱって座らせて、そのまま助手席のドアを乱暴に閉めた。
「し、渋谷さん…」
上から見下ろすその瞳が潤んで期待に満ちて光っている。顔を近づけたら長い睫毛が揺れて瞼が閉じてった。
グロスの光沢に覆われた、ふっくらとした形の良い唇。
そこを通り越して、耳たぶの端で控えめに光るダイヤのピアスに口を近づけた。
「…ねえ、真理さんに何の恨みがあってあんな嫌がらせメールを送ったの?」
田所さんの肩が明らかにビクリと揺れた。
半信半疑だったけど…ビンゴか。
身体を起こすと逃げられない様にドアをキーロックした。
静かに、そしてゆっくりとズレていたであろう腰位置を直す田所さんは、笑顔を保つと言うよりは固まってしまったと言う表現の方が近い気がする。
「…おっしゃっている事が、私にはよくわかりません。何か誤解をされていらっしゃるのでは。」
それでも淡々とこうして言葉が出てくるんだから、大したもんだよ。
「田所さんは真理さんが今日休みだってどうして知ってた?」
「お食事の時にお二人ともおっしゃっていましたよね。」
「いや、出会い頭に言ったじゃないですか。俺じゃなく真理さんに『休日までお仕事ご苦労様です』と。」
形の整った少し切れ長の大きな目が見開く。
「100歩譲って、俺の休みを知っていたのはわかる。
ワークショップの担当だから、会社に電話連絡したら俺が不在だったってこともあるからね。まあ…チームリーダーの真田さんじゃなく、一から担当していた高橋でもなく、途中から加わった新参者の俺に電話連絡って言うのもおかしいけど。」
俺の話を聞いている田所さんは、その唇を噛み締めた。
初めて見た…田所さんの”歪んだ表情”。
「だけど、真理さんが休みだって知っているのはおかしいでしょ。ワークショップから外された真理さんにあなたが連絡するって事は無いはずだから。」
車を停めた丁度上に電線があったのだろうか。ボンネットに水滴が落ちて来て、音を立て、カーラジオから流れる陽気なDJの声色を一瞬だけ消し去った。
何かのきっかけで、真理さんが田所さんと仕事用ではなく私物のスマホの連絡先を交換し、今日が休みという情報を伝えていたと言う可能性もある。
そこを譲歩してもね…。
「真理さんが智ちゃんと会うのに、田所さんが『二人ならともかく四人なら』と提案するのもおかしい。」
多分、真田さんが噂を止めていたんだと思うけど三課の中では凄かった噂も、課を一歩出ると誰も知らなくて。
それに気が付いたのは小会議室の帰りに樹と会って話した時。
社内コンペを真理さんと組みたがるほど真理さんに興味があって、さらにいつも人の輪の中心に居るような樹も、多分知らなかった。
樹は知ってたら言うから、その辺はハッキリ。
そして、真田さんが『体調不良』とクライアント側に報告を入れた以上、真理さん自身が今の時点で自ら公言するとは思えない。
と言う事は、だよ?
「そう言う発言が出来るのは、三課の人間とメールを送った張本人だけ。」
カーラジオが陽気なムードを一変させて70年代のジャズを流し始め、深夜を告げた。そこにまた水滴がボンネットに跳ねる音が混ざる。
「……。」
押し黙る田所さんに、真相を知るまで後少しだと予感した。
「別に俺はあなたを咎めるつもりは無いし、誰かに言う気もないけどね?
でも、繋がってんでしょ?うちの会社の誰かさんと。」
可能性が高いのはこの時点で二人。
だけど…
「市場調査、随分遠くでやるんだね。あのスーパーって系列を全国にたくさん持っていて、ここよりもっと東栄デパートに近い所にあるよね。しかも数カ所。」
客を装っての市場調査ならわざわざ遠くを選ぶ必要はないはず。
…俺に用が無ければ。
「住所教えるから、代わりに見張れとでも言われて俺んち行く途中だった?だったら声なんてかけちゃいけなかったよね、あそこで。」
図星なのか、それに近いやり取りが共謀者とあったのか、田所さんの切れ長の目が再び見開いた。
三課に来て間もない俺は、三課の誰かに住んでいる所を教えていない。
真理さんだって今日が初めてなわけで。
だから三課で、俺の住んでる所を把握出来る人物で、真理さんとの事を勘ぐって”俺を見張りたい”ヤツなんて一人しか居ない。
「…真田さんとどう言う関係なわけ?」
俺を見つめる田所さんとその眼差しを跳ね返そうとする俺の間に、トランペットの妖艶な音色がカーラジオから割って入る。
雨足は更に強くなり、窓に無数の水玉を作っては消えた。
溜め息を小さく吐き出した田所さんの薄茶色の瞳が潤いを増して煌めく。
「…渋谷さんは切れ者だとわかっていたのに。事が済んだと油断をしていたんですね、私は。」
雨に流され見えないはずの外の景色に目線を向けた田所さんが悲しく笑った。
.
.
「渋谷さんすみません、送っていただいて。」
イタリアンレストランを出て田所さんのアパートの前で車を停車させた所で、フロントガラスにポツリ、ポツリと雨粒がついた。
さっき、カーラジオの天気予報で夜は雨だって言ってたもんな。
「少しならここに停められるので、良かったらあがって行きませんか?」
暗い車内にアパートの前の街灯の光が入り込んで、田所さんの黒髪に艶を持たせる。酔いがまだ少し残っているのかいつもより隙がある彼女の微笑みは色気を含む。
「車、停められるんですね。良かった、もう少し田所さんと話していたかったから。」
俺の言葉に、照れくさそうにそして恥ずかしそうに俯く。
…本当に可愛いね。
人当たりも良くて仕事もきっちりこなす器用な人。その上こうやって可愛い。
仕事が出来ても不器用で人に優しい言葉をかけてあげるのが苦手な上に口説くと怒り出す、ピンヒールにコケる誰かさんとは大違い。
外へ出ようとドアを開けて腰を浮かせた田所さんの腕をひっぱって座らせて、そのまま助手席のドアを乱暴に閉めた。
「し、渋谷さん…」
上から見下ろすその瞳が潤んで期待に満ちて光っている。顔を近づけたら長い睫毛が揺れて瞼が閉じてった。
グロスの光沢に覆われた、ふっくらとした形の良い唇。
そこを通り越して、耳たぶの端で控えめに光るダイヤのピアスに口を近づけた。
「…ねえ、真理さんに何の恨みがあってあんな嫌がらせメールを送ったの?」
田所さんの肩が明らかにビクリと揺れた。
半信半疑だったけど…ビンゴか。
身体を起こすと逃げられない様にドアをキーロックした。
静かに、そしてゆっくりとズレていたであろう腰位置を直す田所さんは、笑顔を保つと言うよりは固まってしまったと言う表現の方が近い気がする。
「…おっしゃっている事が、私にはよくわかりません。何か誤解をされていらっしゃるのでは。」
それでも淡々とこうして言葉が出てくるんだから、大したもんだよ。
「田所さんは真理さんが今日休みだってどうして知ってた?」
「お食事の時にお二人ともおっしゃっていましたよね。」
「いや、出会い頭に言ったじゃないですか。俺じゃなく真理さんに『休日までお仕事ご苦労様です』と。」
形の整った少し切れ長の大きな目が見開く。
「100歩譲って、俺の休みを知っていたのはわかる。
ワークショップの担当だから、会社に電話連絡したら俺が不在だったってこともあるからね。まあ…チームリーダーの真田さんじゃなく、一から担当していた高橋でもなく、途中から加わった新参者の俺に電話連絡って言うのもおかしいけど。」
俺の話を聞いている田所さんは、その唇を噛み締めた。
初めて見た…田所さんの”歪んだ表情”。
「だけど、真理さんが休みだって知っているのはおかしいでしょ。ワークショップから外された真理さんにあなたが連絡するって事は無いはずだから。」
車を停めた丁度上に電線があったのだろうか。ボンネットに水滴が落ちて来て、音を立て、カーラジオから流れる陽気なDJの声色を一瞬だけ消し去った。
何かのきっかけで、真理さんが田所さんと仕事用ではなく私物のスマホの連絡先を交換し、今日が休みという情報を伝えていたと言う可能性もある。
そこを譲歩してもね…。
「真理さんが智ちゃんと会うのに、田所さんが『二人ならともかく四人なら』と提案するのもおかしい。」
多分、真田さんが噂を止めていたんだと思うけど三課の中では凄かった噂も、課を一歩出ると誰も知らなくて。
それに気が付いたのは小会議室の帰りに樹と会って話した時。
社内コンペを真理さんと組みたがるほど真理さんに興味があって、さらにいつも人の輪の中心に居るような樹も、多分知らなかった。
樹は知ってたら言うから、その辺はハッキリ。
そして、真田さんが『体調不良』とクライアント側に報告を入れた以上、真理さん自身が今の時点で自ら公言するとは思えない。
と言う事は、だよ?
「そう言う発言が出来るのは、三課の人間とメールを送った張本人だけ。」
カーラジオが陽気なムードを一変させて70年代のジャズを流し始め、深夜を告げた。そこにまた水滴がボンネットに跳ねる音が混ざる。
「……。」
押し黙る田所さんに、真相を知るまで後少しだと予感した。
「別に俺はあなたを咎めるつもりは無いし、誰かに言う気もないけどね?
でも、繋がってんでしょ?うちの会社の誰かさんと。」
可能性が高いのはこの時点で二人。
だけど…
「市場調査、随分遠くでやるんだね。あのスーパーって系列を全国にたくさん持っていて、ここよりもっと東栄デパートに近い所にあるよね。しかも数カ所。」
客を装っての市場調査ならわざわざ遠くを選ぶ必要はないはず。
…俺に用が無ければ。
「住所教えるから、代わりに見張れとでも言われて俺んち行く途中だった?だったら声なんてかけちゃいけなかったよね、あそこで。」
図星なのか、それに近いやり取りが共謀者とあったのか、田所さんの切れ長の目が再び見開いた。
三課に来て間もない俺は、三課の誰かに住んでいる所を教えていない。
真理さんだって今日が初めてなわけで。
だから三課で、俺の住んでる所を把握出来る人物で、真理さんとの事を勘ぐって”俺を見張りたい”ヤツなんて一人しか居ない。
「…真田さんとどう言う関係なわけ?」
俺を見つめる田所さんとその眼差しを跳ね返そうとする俺の間に、トランペットの妖艶な音色がカーラジオから割って入る。
雨足は更に強くなり、窓に無数の水玉を作っては消えた。
溜め息を小さく吐き出した田所さんの薄茶色の瞳が潤いを増して煌めく。
「…渋谷さんは切れ者だとわかっていたのに。事が済んだと油断をしていたんですね、私は。」
雨に流され見えないはずの外の景色に目線を向けた田所さんが悲しく笑った。
.
.