Monkey-puzzle
◇
橘さんの車に乗って走る道すがら「ここでちょっと休憩しようか」と埠頭の近くで車が止まった。丁度雨がポツリポツリとフロントガラスを濡らし始める。
そうか…今日、夜は雨だと言っていたな。今朝の天気予報で。
「今日会ってからずっと思ってたんだけどさ、その靴。」
橘さんが渋谷がくれた靴を指差した。
「すげー似合ってる。珍しいよね?木元さんがフラットシューズ履いているの。」
「そうですね…人前ではいつもヒールですから。」
「それってつまり、相手が恭介だからリラックススタイルでも大丈夫って事?」
橘さんの言い方に、鼓動が跳ねた。
「そ、そうではなくて…これ、渋谷がくれたものなんです。」
別に『履いて』と強制されたわけでもなかったけれど、嬉しくて履き替えようとすぐに思えた。寧ろ…それが自然だった。
靴に視線を落とす私を、橘さんがハンドルに肘をついたまま横から覗き込んだ。
「貰ったから履き替えたってこと?」
「はい…。」
「じゃあ、俺が同じ様にフラットシューズプレゼントしても履いてくれた?」
近い距離になった彼の変わらず凛々とした大きな目はいつもと違い、少し好戦的な色をしている気がする。
「…履き替えるか、木元さんは。俺と木元さんの関係を考えたら当然だよね。俺の事、無下には出来ないでしょ?」
「あ、あの…。」
雰囲気に少し気圧される私に、橘さんは瞬間的に満足げな表情を見せた。その後、身体をシートの背もたれに深く沈める。
「…ってね。ちょっと困らせる事言ってみた。」
もう一度私を見た彼は、いつもの紳士的な優しい雰囲気と柔らかい笑顔に戻っていた。
それに少し胸を撫で下ろしたのも束の間。スッとその手が伸びて来る。
「…でもマジでさ。どこまで許される?俺の立場利用して木元さんに触れるの。」
太めの割にすらりとしている橘さんの指先が髪に触れる。
鼓動が強く打ち、身体がびくりと勝手に反応してしまった。
「す、すみません…あの…。」
俯いた途端に頭を引き寄せられて、頬に触れる橘さんの唇。
「…この位は許してもらわないと。」
目の前の彼はあどけなさを含んだ笑顔で口角をキュッとあげてみせた。
「最初に三人で会った日に、何となくは気が付いてたんだけどさ。」
…高橋の代わりに渋谷がミーティングに行った日だよね。
「二人のやり取り見てて、焦ったんだよね…『やべえ、取られる』って。
ああ、発言がおかしいか、別に木元さんが俺のってワケじゃないのに。」
「そこは、今、傷心に浸ってるって事で勘弁して」と冗談めかして笑う橘さん。
「だからさ、まあ…焦って色々仕掛けてた俺にも噂の責任があると思う。」
「そ、そんな事は。私の名指しメールですから。全面的に私の責任です。」
「じゃあ責任とって俺と付き合ってよ。」
少しだけ低めの早口な声。橘さんの『笑ってるのに目元が全く笑ってない』表情に再び鼓動が大きく打って気圧される。
「『枕』なんかじゃなく、本当に惹かれ合っていたとなれば、俺の名誉は保たれる。木元さんだって今までの仕事が枕営業で指名して貰っていたわけじゃないと証明出来る。」
強い眼差しから何とか逃れて俯いた私の頭が再び大きな掌で覆われて、そのまま引き寄せられた。
「俺だったら、木元さんの事を守れると思うけど。」
そう…かもしれない。
橘さんと付き合えば、周囲は『本気で惹かれ合ってしまったのか』とワイドショー的に面白がりはしても、橘さんの沽券は保たれるし、私も仕事に支障を来す事は殆ど無くなるはずだから。
再び覗き込む様に近づく橘さんに、唇をキュッと噛み締め、その肩を少しだけ押した。
「…すみません。
今回の事は本当に申し訳なかったと思っています。全ては私の思考の甘さに担を発してる事。けれどそれを『お付き合いをする』という形で解決する事は出来ません。」
本格的に降り出した雨がサアアッと音を立て始めて橘さんの肩越しに見えるフロントガラスに作り出された水の筋。埠頭のライトに照らされてそこに反射した光がその大きな目に入り込んで、綺麗に煌めいた。
「…俺、今日かなり意地悪いけど、嫌わないでもらえるとありがたい。」
橘さんが溜め息と同時に身体を離す。
「そう言っちゃ何だけど、結構本気だったんだよね、木元さんの事は。
まあ…でも、仕方ねーよな…。」
言葉の語尾の余韻がカーラジオから小さく聞こえて来るジャズトランペットの音に消されて行った。
「じゃあさ、おせっかいなヤツとして聞いてもいい?恭介とは付き合ってんの?」
…どうなんだろう?
今日一日デートしたら、近づかないって事になっていて…いや、そもそも付き合っているのかな?
「…俺としてはそこはぜひとも即答で『付き合ってる』って言って欲しいんだけど。」
「橘さんに嘘はつけません…というか、つきたくありません。」
「それは、嬉しい気もするけど、こういう時はありだって思うよ?断る手段であって、悪い嘘では無いと思う。」
なるほど…そうなんだ。
だけど、後ろめたくならないのかな…そう言うの。
うーん、と首を捻ると橘さんが含み笑いで私を見る。
「木元さんてもしかして、究極の不器用?」
「えっ?!いや…。」
クククっと声を漏らして笑う彼は楽しそうで。
誠意をもって正直にお話した方が良かったんだよね…と自分に言い聞かせた。
「ごめん、もう口説かないから。これだけいじめたからすっきりしたし。俺もさすがに呪い殺されたくはない。」
の、呪い…?
言っている事がわからず、もう一度首を捻る私に、橘さんは再び含み笑い。
「とにかく、家まで送り届けます、姫。」
冗談めかした言葉と共に車を発進させた。
.
.
橘さんの車に乗って走る道すがら「ここでちょっと休憩しようか」と埠頭の近くで車が止まった。丁度雨がポツリポツリとフロントガラスを濡らし始める。
そうか…今日、夜は雨だと言っていたな。今朝の天気予報で。
「今日会ってからずっと思ってたんだけどさ、その靴。」
橘さんが渋谷がくれた靴を指差した。
「すげー似合ってる。珍しいよね?木元さんがフラットシューズ履いているの。」
「そうですね…人前ではいつもヒールですから。」
「それってつまり、相手が恭介だからリラックススタイルでも大丈夫って事?」
橘さんの言い方に、鼓動が跳ねた。
「そ、そうではなくて…これ、渋谷がくれたものなんです。」
別に『履いて』と強制されたわけでもなかったけれど、嬉しくて履き替えようとすぐに思えた。寧ろ…それが自然だった。
靴に視線を落とす私を、橘さんがハンドルに肘をついたまま横から覗き込んだ。
「貰ったから履き替えたってこと?」
「はい…。」
「じゃあ、俺が同じ様にフラットシューズプレゼントしても履いてくれた?」
近い距離になった彼の変わらず凛々とした大きな目はいつもと違い、少し好戦的な色をしている気がする。
「…履き替えるか、木元さんは。俺と木元さんの関係を考えたら当然だよね。俺の事、無下には出来ないでしょ?」
「あ、あの…。」
雰囲気に少し気圧される私に、橘さんは瞬間的に満足げな表情を見せた。その後、身体をシートの背もたれに深く沈める。
「…ってね。ちょっと困らせる事言ってみた。」
もう一度私を見た彼は、いつもの紳士的な優しい雰囲気と柔らかい笑顔に戻っていた。
それに少し胸を撫で下ろしたのも束の間。スッとその手が伸びて来る。
「…でもマジでさ。どこまで許される?俺の立場利用して木元さんに触れるの。」
太めの割にすらりとしている橘さんの指先が髪に触れる。
鼓動が強く打ち、身体がびくりと勝手に反応してしまった。
「す、すみません…あの…。」
俯いた途端に頭を引き寄せられて、頬に触れる橘さんの唇。
「…この位は許してもらわないと。」
目の前の彼はあどけなさを含んだ笑顔で口角をキュッとあげてみせた。
「最初に三人で会った日に、何となくは気が付いてたんだけどさ。」
…高橋の代わりに渋谷がミーティングに行った日だよね。
「二人のやり取り見てて、焦ったんだよね…『やべえ、取られる』って。
ああ、発言がおかしいか、別に木元さんが俺のってワケじゃないのに。」
「そこは、今、傷心に浸ってるって事で勘弁して」と冗談めかして笑う橘さん。
「だからさ、まあ…焦って色々仕掛けてた俺にも噂の責任があると思う。」
「そ、そんな事は。私の名指しメールですから。全面的に私の責任です。」
「じゃあ責任とって俺と付き合ってよ。」
少しだけ低めの早口な声。橘さんの『笑ってるのに目元が全く笑ってない』表情に再び鼓動が大きく打って気圧される。
「『枕』なんかじゃなく、本当に惹かれ合っていたとなれば、俺の名誉は保たれる。木元さんだって今までの仕事が枕営業で指名して貰っていたわけじゃないと証明出来る。」
強い眼差しから何とか逃れて俯いた私の頭が再び大きな掌で覆われて、そのまま引き寄せられた。
「俺だったら、木元さんの事を守れると思うけど。」
そう…かもしれない。
橘さんと付き合えば、周囲は『本気で惹かれ合ってしまったのか』とワイドショー的に面白がりはしても、橘さんの沽券は保たれるし、私も仕事に支障を来す事は殆ど無くなるはずだから。
再び覗き込む様に近づく橘さんに、唇をキュッと噛み締め、その肩を少しだけ押した。
「…すみません。
今回の事は本当に申し訳なかったと思っています。全ては私の思考の甘さに担を発してる事。けれどそれを『お付き合いをする』という形で解決する事は出来ません。」
本格的に降り出した雨がサアアッと音を立て始めて橘さんの肩越しに見えるフロントガラスに作り出された水の筋。埠頭のライトに照らされてそこに反射した光がその大きな目に入り込んで、綺麗に煌めいた。
「…俺、今日かなり意地悪いけど、嫌わないでもらえるとありがたい。」
橘さんが溜め息と同時に身体を離す。
「そう言っちゃ何だけど、結構本気だったんだよね、木元さんの事は。
まあ…でも、仕方ねーよな…。」
言葉の語尾の余韻がカーラジオから小さく聞こえて来るジャズトランペットの音に消されて行った。
「じゃあさ、おせっかいなヤツとして聞いてもいい?恭介とは付き合ってんの?」
…どうなんだろう?
今日一日デートしたら、近づかないって事になっていて…いや、そもそも付き合っているのかな?
「…俺としてはそこはぜひとも即答で『付き合ってる』って言って欲しいんだけど。」
「橘さんに嘘はつけません…というか、つきたくありません。」
「それは、嬉しい気もするけど、こういう時はありだって思うよ?断る手段であって、悪い嘘では無いと思う。」
なるほど…そうなんだ。
だけど、後ろめたくならないのかな…そう言うの。
うーん、と首を捻ると橘さんが含み笑いで私を見る。
「木元さんてもしかして、究極の不器用?」
「えっ?!いや…。」
クククっと声を漏らして笑う彼は楽しそうで。
誠意をもって正直にお話した方が良かったんだよね…と自分に言い聞かせた。
「ごめん、もう口説かないから。これだけいじめたからすっきりしたし。俺もさすがに呪い殺されたくはない。」
の、呪い…?
言っている事がわからず、もう一度首を捻る私に、橘さんは再び含み笑い。
「とにかく、家まで送り届けます、姫。」
冗談めかした言葉と共に車を発進させた。
.
.