Monkey-puzzle




事態について行けずに仕事終わりの時間までどことなく上の空で過ごしてしまった私を終業時間ピッタリに渋谷が迎えにきて、山田部長が「今日位定時で帰りなさい」と渋る私を書庫整理部から追い出した。


そのまま、何だかんだと言いくるめられて連れて来られた渋谷のマンション。

ソファに座った途端に「やっとコンペ終わった!」と渋谷が私を嬉しそうに抱き締める。


「えっとさ…何がどうなってたの?あれ…。」

「別に、わかりづらい所は無いって思うけど。
ただ単に、真理さんがどういう人間か皆にお知らせしてみただけで。」


久しぶりに渋谷の温もりを感じた身体は素直にそれに反応し、体温を高めようと鼓動が少し早くなった。


「まあ…俺だけが知ってるってのも良かったけど。それだと、真理さんの事だから『私と居たら、渋谷に迷惑がかかる』とか勝手に思い込んで、絶対離れてくって思ってさ。だから、先回りさせて貰った。」


横から覗き込む様に目を瞬かせた私を見る渋谷の黒縁眼鏡の奥の瞳が、イタズラを企む子供みたいに爛々と輝いていて、唇は弧を描いている。

自信満々なその表情は、元から童顔の部類である彼の顔をより幼く見せた。


「コンペが終わったら全部ネタばらししてやろうって考えて、真理さんの『おせっかい』に乗っかったんだよ。
真理さんがどんな風に三課のメンバーを思っているか、一目瞭然だもんねあの紙見りゃ。あれ見たら誰でもああなるって思うよ?」

『利用出来る物は利用しなきゃ」でしょ?」とおでこ同士をすりあわせられて、メガネのフレームが目尻に少しぶつかって「ん」と一瞬目を瞑った。

「まあ、読んだ俺はいちいちムカついて大変だったけど。白石さんとか『土壇場でハッキリと言い切れる力があって、男らしい』ってさ…『男らしい』とかいる?評価に。」


目尻に渋谷の唇が触れる。


「それにあれ、俺と高橋の事は書いてなかった。
でも、高橋にはこの前の『香りのワークショップ』の時に話してたでしょ?
だけど、俺のことは一度も聞いた事無いんだけど。」


至近距離の渋谷の顔はいつになく真剣で、メガネの奥の瞳が綺麗に揺れている。それにコクリと喉を鳴らした。

渋谷は…後輩だし、机を並べたのはわずか半年強。けれど、
仕事に対する姿勢も素晴らしかったし、細やかな気配りや全体を見渡す目も備わっていて、アイディアも誰より柔軟で…何より、隣に並ぶ事で安心出来た。


…それが素直に口から出れば可愛げのある女性なんだろうけど、そこはやっぱり私で。どうあっても、渋谷には恥ずかしくて言えないと頭の中で勝手に決断が下された。


「…教えない。」
「はあ?!何でよ。」


口を尖らせる渋谷を前に、何とか誤摩化せないかと頭の中をフル回転。


「こ、この前は、『仕事云々なんて興味ない』って言ってた。」
「言ったけどさ…でも聞きたいんだって。」
「ど、どうして…?」
「真理さんに褒められるのは最高のご褒美だから。」


戸惑い無く言われたその言葉に首を傾げる。


「私そんなに凄い人間じゃないよ?ほら、ピンヒールも履きこなせない、ダメなヤツ…。」

「だけどいざとなったらそれを脱ぎ捨てて走り出す優しさがある人を俺はダメとは思わない。」


脱ぎ捨てて…走り出す?


渋谷の変わらない眼差しに口から出任せではなくそこに意味を含んでいると感じて、眉間に皺を寄せると、優しい微笑みを向けて立ち上がる渋谷。

「…ここまで来たら思い出す事にする?真理さん。」

奥のクローゼットから出して来たものはミドル丈の女性物のグレーのコートと薄グリーンのストールで、うっすらではあるけれど見覚えのあるそれに、過去の記憶が蘇り出す。

もう、何年も前の事。
夜から降り続けていた粉雪が、あがりきらずに舞っていた…あの冬の日の朝。

駅の改札を出てから少しの所で男の子がガードレールに顔をつけてしゃがみ込んで震えていたのを見つけて声をかけて…確かにコートとストールをかけてあげた。


それが今、渋谷の手の中にあると言う事は、渋谷があの時の男の子?
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