一生に一度の恋をしよう
それは突然動き出す
翌日、朝食の席で。
「昨夜も随分遅くまで語らっていたようですね」
マルグテ夫人が睨むような視線の中で言う。
「はい、本当に、なにをそんなに話すことがあるんでしょう」
恵里佳がにこやかに答えた、勿論、ユルリッシュ皇太子の事件の話なのだが。
「式はいよいよ明日です、今日が独身最後の日ですからね、ご友人と少し遠出でもなさったら」
マルグテ夫人は眉間に皺を寄せたまま提案する。
はえ? 今までそんなに暇じゃないだろうくらい言ってたのに!?
「まあよろしいんですか!?」
恵里佳も驚いて聞いていた。
「いいなあ、僕も行きたいなあ」
ハルルートが言うと、マルグテ夫人は睨み付けた。
「あなたはすることが山ほどございます」
言われてしゅんと落ち込むハルルート、本当に頭が上がらないんだな。
「晩餐会までには戻れば、好きに街歩きを楽しみなさい」
「はい、ありがとうございます、お義母様」
***
車で宮殿を出て、坂道を下る。
間も無くしてだ。
「あれ?」
運転手が声を上げる。
「ガブ? どうしたの?」
恵里佳が声をかける。
「あ、いえ、その……ブレーキの効きが、悪いような……」
「え?」
「う、わ、え……っ! 悪いどころじゃありません! 効かないです!」
「ええ!?」
私と恵里佳は同時に声を張り上げた。
車はどんどんスピードを上げる、運転手はなんとかハンドル操作で一つ目のカーブは曲がれたけれど、次のカーブは……!
「ガブリエル!」
恵里佳が思わず叫ぶ。
「嘘でしょ!」
私は日本語で叫んでいた。
ガードレールを突き破る衝撃と、急激な降下。
10数メートル下は、海だ。
どうしよう、と思っている間に水面に叩きつけられた。
「私達を殺すって事!?」
私は叫んでいた。
「お義母さま、相当追い込まれたのね」
恵里佳はのんびりだ。
「えと! とにかくドアを開けよう!」
「もう開かないわ」
「窓は!」
「駄目、電気系はイかれたみたいね」
「窓を割って……!」
運転手のガブリエルが慌ててダッシュボードを開けて、中をガサゴソ探す、窓を割る道具でもあるのだろうか。
その時視界の端に水飛沫が上がるのが見えた、誰かがクロールで近付いてくるのも判った。
車に掴まったのはカルロだった。持っていたナイフの柄で、助手席のドアを叩き割る。
「エレメイの動きが怪しかったので、後をつけて正解でした。ご無事ですか?」
にこやかに言う。
「あまり無事ではないわね」
恵里佳は余裕で答える、カルロは微笑んだ。
「既に事態は知らせてあります、救助はまもなく来るでしょう。泳ぎに自信がない人は?」
すぐさまガブリエルが手を挙げた。
「お、泳げません……!」
カルロは嘆息した。
「仕方ありませんね、レディーを置いていくのは気が引けますが、泳げないと青ざめている人を置いて行く事はできません」
「私は大丈夫だけど、渚沙は?」
恵里佳は区の代表に選ばれたこともあるくらいだ、あーなんで恵里佳はパーフェクトウーマンかなー。
私は……、
「ないけど、なんとか頑張るよ……」
25メートルなら泳いだ事あるけど、それ以上は未知数。そして断崖絶壁の麓にある小さな岸までは60メートルはありそう……!
「お二方は車から出てからお待ち下さい。車が沈むまでは掴まっていた方がいいでしょう。ただ沈むとそれに巻き込まれる可能性があります、沈み切る前には十分離れて」
ガブリエルを引きずり出しながらカルロは言う。
そしてカルロが離れると、恵里佳はウールのワンピースを脱ぎ始めた。
「え、恵里佳!?」
「こんなの着てたら泳げないじゃない」
だからって、王妃様が下着を露わにしていいものだろうか……まあ確かにウールのワンピースなんぞ、水吸ったらすごい事になるだろうけど。
キャミソールの下着姿になった恵里佳は、助手席へ移動を始める。
わ、私はジーンズだから、このままでいいかなー……靴は脱いで行こう。
二人並んで車の屋根に掴まった。私達の体重の分が減ったからか、沈み方が一瞬緩くなる。
「渚沙、頑張るわよ」
「うん!」
車の窓が半分程水に沈んだ時、私達は手を離して泳ぎ出した。
恵里佳が私を気遣いながら泳いでくれている、ああ、優しいなあ。
でも、水温の所為か、体がうまく動かない、やっぱり服をもっと脱いだ方が良かったかなー。
手をどんなに掻いても陸が近付かないと感じる、その事に気力が奪われる。
頑張っても、助からないかも。
「渚沙、しっかり!」
平泳ぎで泳いでいた恵里佳が声をかけてくれる。更に腕を引っ張ってくれる。
それじゃ駄目だと思ったのか、抱き締め、顎に手をかけてくれる、恵里佳は立ち泳ぎだ。
でも判る、恵里佳がそんなことしてたら、一緒に沈んでしまう。
私は闇雲に恵里佳を押した、だって王妃様だよ、この国にはなくてはならない人なのに、私なんかと死んだりしたら……。
「渚沙!」
シルヴァンの声がした。ああ、こんな時に幻聴が聴こえるとは。
そっか、幻聴聞こえるくらい、私はあなたが──。
「渚沙!」
声がする方を無意識に見た、そちらを見るとモーターボートが近づいて来るのが見えた、船首で身を乗り出すシルヴァンも。
「渚沙!」
声がする、その姿が水にぼやけた。
シルヴァンが水に飛び込む姿が見えた、馬鹿だなあ、水、冷たいのに。
私は水の中で呼吸をしていた、当然肺に満たされるのは空気じゃない、水だ、でも不思議と苦しくなかった。キラキラ光る泡が水面に向かって上がっていくのが綺麗だなとか思ってた、それ越しに見えるシルヴァンも、綺麗だなぁ……。
腕をシルヴァンに引かれる、助けようとしてくれてる? 馬鹿ね、私なんかより王妃様助ける方が先でしょう……?
ああもう、体に力が入らない……私、死ぬんだ。
***
目が覚めたのは、病院だった。
恵里佳が付き添ってくれていた。
ベッドに頬杖ついてニコニコしてる。
「よかった、恵里佳は無事だったんだね、って、な、なに……?」
そのニコニコぶりが気持ち悪かった。
「んふふーっ! もお、シルヴァン殿下の取り乱しようったら! 動画に撮りたかったわ!」
「え、そうなんだ……?」
「渚沙が死んだって大騒ぎでね、カルロに心臓マッサージをさせろって殴られてたわよ! でもねえ、死ぬな、死ぬなってあなたを抱き締めてたんだから」
ああ、何故その記憶が私にないー?
「全くもー、王妃の私なんかガン無視よー、まあいいけどー、イケメンの慌てぶりって、美味しいわねーっ!」
「そですか……それで、一体何が、どうなったの?」
*
曰く。
どうやらエレメイが車に細工をしたらしい、車の近くにエレメイがいたのを運転手のガブリエルが見ていたのだそうだ。
声を掛けたけれど「落し物を探していた」とか言っていなくなったと。
昨日は外出に付き添ったエレメイが付いて行かなかった事、そのくせシルヴァンの警護と言う名の監視にもいない事を不審に思ったカルロが、仲間にエレメイの監視を頼み、自身は私達の後をつけたのだそうだ。
そしてあの事故。
車はすぐに引き上げられ、調べられた。
ブレーキオイルに大量の水が入っていたそうだ。海水ではない、真水の混入は誰かが意図的にやらなくてはありえないとの事。
シルヴァンとカルロから、エレメイに事情を聞いてほしいと頼んだが、既にエレメイはフランスに出国、更にアメリカ行きの便に乗りいなくなっていた。
主従関係にあるマルグテ夫人の責任が追及された。
「エレメイが何をしたかなど、私は関知致しません」
マルグテ夫人は知らぬ存ぜぬを貫く。
「叔母上、言い逃れはできませんよ」
シルヴァンが詰め寄る。
「母上、あなたは一体何を……」
ここへ来てハルルートはようやく事態を知る。
恵里佳が説明する、ユルリッシュ殿下の死とハルルートの父であるヘフゲン氏の疑惑を……。
ハルルートは肩を落として、言ったと言う。
「エレメイは10年以上雇われています、父の片腕、懐刀とまで言われた人です。そんな人が勝手に行動するなどないでしょう。しかも恵里佳も殺そうとするなんて……」
ハルルートの告白に、マルグテ夫人も観念したと言う。
「わたくし、カルロ・カステッリの権限により、マルグテ・ヘフゲン夫人を拘束致します」
彼の一言で数名の近衛兵がマルグテ夫人を捕らえ連行して行ったと言う。
「エタン殿下の復権を要求します」
カルロが声高に宣言した。
そして明かされた事実。
マルグテ夫人は度々父であるサンハデス王にお金の無心をしていたらしい。
サンハデス王が病床に着くと、更にそれは酷くなり、サンハデス王の私物を持ち出し、アメリカで換金していたのだと言う。
私物だけれど、王の物は民の物だ。
あるべき物がない、金が異常な減り方をしている、それらにマルグテ夫人が関わり、ヘフゲン氏の事業資金になっていると知ったユルリッシュ殿下がそれを諌めに行ったのだそうだ。
既に手元にある物は返さなくてもいい、しかし金輪際、1アロンたりともヘフゲン夫妻にお金は渡せない、と。
それに怒ったのは、ヘフゲン氏だ。大きな資金源だったらしい。
口論になり揉み合いになり、ヘフゲン氏はユルリッシュ殿下を撃ってしまったのだと言う。
戴冠前とは言え、王となる者を撃ってしまった、動揺したヘフゲン氏はエレメイに後処理を頼む。
ヘフゲン夫妻は、いわゆる闇医者に治療を頼んで欲しかった。
しかし、エレメイは無言でユルリッシュ殿下に5発もの銃弾を撃ち込んだと言う。
絶命したユルリッシュ殿下を、如何にもゴロツキに襲われたと見せかけてスラム街に放置したのは、間違いなくエレメイだった。
*
「ハルルート、すっかり意気消沈しちゃって」
恵里佳は笑顔で振り返る。
*
「恵里佳、まだ式を挙げていなくてよかった」
ハルルートは肩を落として言った。
「僕は王位継承は辞退する、君を王妃にすることはできない。今なら無関係に戻れる。ご両親と日本へ戻るといい……」
「ハルルート、あなた、馬鹿ね」