生け贄の踊り子は不遇の皇子に舞いを捧ぐ

2、女主人ニカレテ

 ルクソニア帝国首都ルクソンナッソス。ここセレンティア地区は郊外に程近い、下層市民の住む街だった。くずれかかりそうな集合住宅(インスラ)が建ち並び、狭い路地には集合住宅(インスラ)の一階にある店々が軒を連ね、細々した物品や飲食物を売る露天が隙間をみつけては店を広げている。市場に店を広げられなかった者が路地にまであふれているのだった。ただでさえ狭い路地だから店々で立ち止まる客や路地を通り抜けようとする人々でつねにごった返している。

この界隈で育ったユノはそんな雑踏は慣れっこで、すいすい抜けて途中奥まった路地に飛び込んだ。裏通りに入ってしまうと、商店が少ないせいで人通りはずいぶん減る。ユノはもらった果物の入ったかごを抱えなおし、足を早め、集合住宅(インスラ)一階の大きな門扉を開いて中に入っていった。

「ただいま!」
「おかえり」
 ユノの元気な声に、穏やかな男の声が答える。ユノはカウンターに駆け寄って重たいかごをどっかりと置いた。テーブルと椅子が幾つも置かれた広い部屋を掃除していた男は、近寄ってかごの中をのぞき込む。

「頼んでたより多くない?」
 ユノはどきっとして肩をすくませた。
「あ、えっと。おまけしてくれたのよ」

「ユノ」
 背後から凄んだ声がして、ユノはひゃっと飛び上がった。おそるおそる振り返ると、案の定腕組みした女主人が睨んでいる。豊満な体に女物のかかとまで隠れるトゥニカを纏い、髪を結い上げ美しい顔をさらに化粧で彩った迫力ある美人。

 ユノはびくびくと名を呼んだ。
「ニカレテ……」
 ニカレテは半目でユノを見据え、指摘する。
「……踊ったね?」
「……ごめんなさい」

素直に謝ったものの、ニカレテの手は容赦なくユノの頭に伸びた。
「いた! いたたたたいたい!」
 拳骨で頭頂をぐりぐり押されて、ユノはたまらず悲鳴をあげる。

 ニカレテは目を吊り上げて叱った。
「危ないから外では踊るなと、何度言ったらわかるのかねぇこの頭は」

 踊りを観賞する楽しみをまだまだ知らない民衆にとって、踊りとは神に捧げるために神官や巫女が踊るものか、娼婦が客を誘うために踊るかのどちらかでしかなかった。外で踊れば、誘われたと勘違いした男がどこで物陰に引きずり込むかわかったもんじゃない。自分の身を守るためだとさんざん言って聞かせたはずなのに、年頃になった今でもユノは言いつけを守ろうとしない。

「痛い痛いごめんなさい!」
「もうしません、は?」
「…………痛い痛い痛い!」
 騒ぎながらも一向に音をあげないユノに、ニカレテの方が折れた。

ユノが解放されて涙目で頭をさすっていると、ニカレテはため息混じりに言う。
「いつか取り返しのつかない痛い目に遭うよ」
「大丈夫! みんないい人ばっかりだから」
 得意満面に答えるユノをニカレテは拳骨でなぐりつけた。さすがの能天気もしゅんとなる。

 ユノは頬を押さえながらぐずぐずと言った。
「ニカレテが心配してくれるのは嬉しいの。でもあたし踊りたいんだもん」
「そのうち嫌でも踊らせてやるから、ちょっとの間我慢しろって言ってんの」

 ニカレテがあごでしゃくって示した先には小さな舞台がある。数日後、ユノはこの舞台でデビューする。そのことを考えると胸が高鳴る。でも。
「デビューまで待ってらんない。踊りたくって仕方ないの」
 体がうずく。思いっきり踊り賞賛を浴びる快感を思うと居ても立ってもいられない。

 今にも踊り出しそうな体を抱きしめるユノに、ニカレテはため息をつく。
「で? お使いの金は?」
 ユノは銅貨をちゃらちゃらと、ニカレテの差し出す手の上に落とした。

「あんた、小銭を貯め込んでどうするつもりだったの?」
「デビューの舞台で腕輪を着けられたらなあって思って」
 ニカレテが眉間にしわを寄せて額を押えた。
「あのねぇ。踊り子のアクセサリーは客からの貢物なの。初舞台から身につけてたら、もう買い手がついてると思われて客がつかなくなるよ」

 ユノは目をしばたかせ考え込みはじめる。
「何?」
「その……三人の男の人からね、初舞台で身につけてくれってネックレスもらったんだけど、それはどうしよう……」
 ニカレテは頭を抱えた。
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