生け贄の踊り子は不遇の皇子に舞いを捧ぐ
32、恋の自覚
急ぐあまりに、セリウスは扉を叩くこともせず部屋に飛び込んでしまった。
この部屋の主である娘は、乱入者に驚き、踊るのをやめ自身の体を抱きしめた。セリウスであることに安堵して腕の力をゆるめたようだが、普段とかけ離れたセリウスの様子に怯えを解けずにいる。
身を守るそのしぐさに、セリウスは答えを見た気がした。
脱力と、走ったために回った酒のせいでセリウスはよろける。娘はとっさに駆け寄って支えようとした。結局支えきれずに、二人してその場に座り込んでしまう。
セリウスはあぐらをかき、うなだれて言った。
「お前は……娼婦ではなかったのだな」
「……え?」
小さく疑問の呟きをもらした娘は、少し考えてセリウスが何を言いたいのか察した。
「はい」
セリウスは頭を抱える。
皇帝の寝所へのお召しを何故ああまで頑なに拒んだのか、理由がようやくわかった。
妃の命惜しさに自分を身代わりにした皇帝に好きにされたくないという、娘なりの誇りの現れだと思っていた。
そうではなかった。いや、それだけではなかった。心根だけではない、その身も清らかだったのだ。
なのにセリウスは、娘のためと信じて逆に非道を口にしてしまった。──カスケイオスに何を言われたか知らないが、無駄に命を縮めたくなかったら皇帝陛下の仰る通りにしていることだ──こんなことを言われた後に、皇帝の言葉を聞いた娘の気持ちは如何ほどのものだったか。
それだけでない。自分は心のどこかで、娼婦などという罪深い身の上は、神に捧げられて清めてしまえと思ったことがなかったか? 頭の中からすっかり締め出してしまっていた記憶がよみがえってくる。
冷たい床の上に胡座をかいて座り込んでしまったセリウスを、膝で立っているユノはおろおろと見下ろした。
強いぶどう酒の匂いがする。でも酔っ払って座り込んでしまっただけではないとわかった。ひどく打ちひしがれている。
ユノは考えた。何があったのだろうと。セリウスはものを訊ねることは許してくれるけれど、全てに答えてくれるわけではない。まして今の状態のセリウスに問うことなどできなかった。
わずかな手がかりを頼りに思考をめぐらせる。
──お前は……娼婦ではなかったのだな。
この言葉を、ユノは体を売ったことがない、生娘であるということと捉えて頷いた。
生娘であると知って何が困ることがあるのだろう。生贄には子供を産んだことのない家禽、特に純潔の雌を捧げるのがよいとされているくらいなのだからより好都合なはずだ。
でもよくよく考えてみれば、ユノは皇帝妃の身代わりで生贄にされるのだった。妃、皇帝の妻である者が生娘であるはずがない。皇帝妃の身代わりが生娘であることに問題があるのだろうか。
ユノが生贄にふさわしくないと判明したとしても、だからといって生贄になる運命から解放されるというほど、事は簡単には済まされないところまできていることはユノにもわかっていた。
今更生贄に選んだ娘は生贄に不適切だったと言って安易に交換できはしない。ユノは皇帝の御前で生贄になることを宣言してしまった。
生贄として不適切だけど、今更交換はできない。そのことでセリウスが悩んでいるのなら、ユノが生贄にふさわしくなれば?
セリウスを見下ろすユノの頬がかあっと赤らんだ。恥ずかしい考えが浮かんでしまう。生娘なのが困るのなら、生娘でなくなればいい。セリウスが相手をしてくれるのなら嫌じゃない。むしろ、愛されたいと。
ユノはうろたえた。そういう行為はユノにとって商売という認識しかなかった。そういう運命に生まれついてしまっていたから。
娼婦が恋したら不幸になる。だから恋なんて自分とは無関係だと言い聞かせてきた。なのに唐突に自覚してしまう。
自分は、目の前にいるこの人に恋をしているのだと。
いけないと思ったのと同時に、今自分が居る場所に気付いた。
ここは娼館じゃない、神殿だ。そしてユノはもうすぐ神に捧げられる。限られた時間を好きなことをして過ごそうと決めたのではなかったか。残された時間はわずかしかない。
ユノは心を決めて口を開いた。
「妃の身代わりであるあたしが男を知らないのが困るというのなら、貴方様があたしに教えください」
驚いたセリウスが顔を上げる。ユノと視線が合った。合わせていたのは一瞬、セリウスは慌てて横を向く。
悲しくなった。赤らんだ顔の熱がすうっと冷えていく。
分不相応な願いだとわかっている。奴隷が貴族に情けを求めるなんて。
こんな心に気付かなければよかった。でも気付いてしまった。気付いてしまった気持ちは、止めようもなくあふれてしまう。
未知への恐れと羞恥の眩暈、それらを飲み込んでしまうほどの激しい感情。
「一度でいいんです。あたしを憐れと思うなら情けをください」
震える声でユノは言った。セリウスの肩に手を伸ばす。
セリウスはユノの手を避けて後ろ手に這い、そして立ち上がった。この部屋に入ってきたときと同じ勢いで部屋を出ていってしまう。
身をひるがえす前にユノに見せた顔は、怯えるように、痛みをこらえるかのように歪められていた。
何てことを言ってしまったんだろう。
セリウスにあったのは徹底的な拒絶だった。
絶望感に襲われ、ユノは石の床に突っ伏した。
この部屋の主である娘は、乱入者に驚き、踊るのをやめ自身の体を抱きしめた。セリウスであることに安堵して腕の力をゆるめたようだが、普段とかけ離れたセリウスの様子に怯えを解けずにいる。
身を守るそのしぐさに、セリウスは答えを見た気がした。
脱力と、走ったために回った酒のせいでセリウスはよろける。娘はとっさに駆け寄って支えようとした。結局支えきれずに、二人してその場に座り込んでしまう。
セリウスはあぐらをかき、うなだれて言った。
「お前は……娼婦ではなかったのだな」
「……え?」
小さく疑問の呟きをもらした娘は、少し考えてセリウスが何を言いたいのか察した。
「はい」
セリウスは頭を抱える。
皇帝の寝所へのお召しを何故ああまで頑なに拒んだのか、理由がようやくわかった。
妃の命惜しさに自分を身代わりにした皇帝に好きにされたくないという、娘なりの誇りの現れだと思っていた。
そうではなかった。いや、それだけではなかった。心根だけではない、その身も清らかだったのだ。
なのにセリウスは、娘のためと信じて逆に非道を口にしてしまった。──カスケイオスに何を言われたか知らないが、無駄に命を縮めたくなかったら皇帝陛下の仰る通りにしていることだ──こんなことを言われた後に、皇帝の言葉を聞いた娘の気持ちは如何ほどのものだったか。
それだけでない。自分は心のどこかで、娼婦などという罪深い身の上は、神に捧げられて清めてしまえと思ったことがなかったか? 頭の中からすっかり締め出してしまっていた記憶がよみがえってくる。
冷たい床の上に胡座をかいて座り込んでしまったセリウスを、膝で立っているユノはおろおろと見下ろした。
強いぶどう酒の匂いがする。でも酔っ払って座り込んでしまっただけではないとわかった。ひどく打ちひしがれている。
ユノは考えた。何があったのだろうと。セリウスはものを訊ねることは許してくれるけれど、全てに答えてくれるわけではない。まして今の状態のセリウスに問うことなどできなかった。
わずかな手がかりを頼りに思考をめぐらせる。
──お前は……娼婦ではなかったのだな。
この言葉を、ユノは体を売ったことがない、生娘であるということと捉えて頷いた。
生娘であると知って何が困ることがあるのだろう。生贄には子供を産んだことのない家禽、特に純潔の雌を捧げるのがよいとされているくらいなのだからより好都合なはずだ。
でもよくよく考えてみれば、ユノは皇帝妃の身代わりで生贄にされるのだった。妃、皇帝の妻である者が生娘であるはずがない。皇帝妃の身代わりが生娘であることに問題があるのだろうか。
ユノが生贄にふさわしくないと判明したとしても、だからといって生贄になる運命から解放されるというほど、事は簡単には済まされないところまできていることはユノにもわかっていた。
今更生贄に選んだ娘は生贄に不適切だったと言って安易に交換できはしない。ユノは皇帝の御前で生贄になることを宣言してしまった。
生贄として不適切だけど、今更交換はできない。そのことでセリウスが悩んでいるのなら、ユノが生贄にふさわしくなれば?
セリウスを見下ろすユノの頬がかあっと赤らんだ。恥ずかしい考えが浮かんでしまう。生娘なのが困るのなら、生娘でなくなればいい。セリウスが相手をしてくれるのなら嫌じゃない。むしろ、愛されたいと。
ユノはうろたえた。そういう行為はユノにとって商売という認識しかなかった。そういう運命に生まれついてしまっていたから。
娼婦が恋したら不幸になる。だから恋なんて自分とは無関係だと言い聞かせてきた。なのに唐突に自覚してしまう。
自分は、目の前にいるこの人に恋をしているのだと。
いけないと思ったのと同時に、今自分が居る場所に気付いた。
ここは娼館じゃない、神殿だ。そしてユノはもうすぐ神に捧げられる。限られた時間を好きなことをして過ごそうと決めたのではなかったか。残された時間はわずかしかない。
ユノは心を決めて口を開いた。
「妃の身代わりであるあたしが男を知らないのが困るというのなら、貴方様があたしに教えください」
驚いたセリウスが顔を上げる。ユノと視線が合った。合わせていたのは一瞬、セリウスは慌てて横を向く。
悲しくなった。赤らんだ顔の熱がすうっと冷えていく。
分不相応な願いだとわかっている。奴隷が貴族に情けを求めるなんて。
こんな心に気付かなければよかった。でも気付いてしまった。気付いてしまった気持ちは、止めようもなくあふれてしまう。
未知への恐れと羞恥の眩暈、それらを飲み込んでしまうほどの激しい感情。
「一度でいいんです。あたしを憐れと思うなら情けをください」
震える声でユノは言った。セリウスの肩に手を伸ばす。
セリウスはユノの手を避けて後ろ手に這い、そして立ち上がった。この部屋に入ってきたときと同じ勢いで部屋を出ていってしまう。
身をひるがえす前にユノに見せた顔は、怯えるように、痛みをこらえるかのように歪められていた。
何てことを言ってしまったんだろう。
セリウスにあったのは徹底的な拒絶だった。
絶望感に襲われ、ユノは石の床に突っ伏した。