生け贄の踊り子は不遇の皇子に舞いを捧ぐ

33、無自覚の恋

 西の地平に沈み行く半円の月の光を浴びながら、セリウスは神殿前の石段に腰掛けて顔を膝に伏せていた。

 足音が近付いてきて、セリウスの背後に立った。
「さっき話した噂話、お前たちのことだったのか」

 セリウスは返事しなかった。返事などできる状態ではなかった。
 後悔が頭の中を渦巻いて、口を開けば叫んでしまいそうだった。

 娼婦じゃなかった、汚れていなかった。
 娘が娼婦であったことを理由に罪悪感からわずかに目をそらすことができていたのに、その理由さえなくなった。

 露呈する。自らの卑怯な考えが。


 ──・──・──


 娼婦という汚れた商売をする娘なのだから構わないと言い聞かせて、あの娘を生贄に選んだ。
 元神官見習の見込んでと言われたものの、人間の生贄を選ぶ基準などわかるはずがなかった。
 家禽ならば丸々としているとか子供を産んだことのない雌とか考え方はあるけれど、同じように考えればいいかと思ったところで問題が生じてくる。
 帝国民の中から選ぶわけにはいかない。帝国のための貴い役目とはいえ、大事な娘を生贄に差し出せと言われたら家長が承諾するはずがない。問題が起こりそうにないのは、奴隷から選ぶことか。

 娘と指定されている。養父である叔父は言えば奴隷の一人くらい回してくれるだろう。叔父の家にも娘の奴隷が数人いる。しかし彼女たちはとてもよくマイウス家に仕えてくれている。そんな者たちにこれから死んでくれなどとは言えなかった。

 ──セリウス様。ティティアヌス様に事情をお話して助力を得たらどうでしょう?
 従者のイケイルスが言った言葉にセリウスは首を横に振った。
 ──いや、何から何まで叔父上の世話になっているわけにはいかない。
 セリウスは歩き続ける。生贄にふさわしい奴隷の娘と考えても考えても思い浮かばない。

 いつの間にか下町の市場にまで降りてきていた。セリウスのような身分の人間が来ていいところではない。引き返そうとしたところに喝采が耳に飛び込んできた。

 うるさい雑踏の中で一際大きな騒ぎが起こるものだから、驚いて見回してしまう。
 すると人だかりが目に止まった。何事かと近寄ったセリウスの目に、空に向かって伸ばされた白い腕が飛び込んでくる。
 背の高いセリウスは、人垣の上から覗くことができた。人だかりの中央にいたのは、踊る娘だった。

 目が離せなくなった。日の光の中、極上の笑顔で踊る娘。

 気付いたら首を伸ばして食い入るように見つめていた。
 我に返ったのは果物屋の店主が声を上げたからだった。
 娘は店主から果物の入ったかごを受け取る。声をかける男たちに笑顔を振りまきながら、小さな背丈はすぐに市場の雑踏に紛れてしまった。
 セリウスは突き動かされたように店主に訊ねていた。

 娘は娼館の奴隷だと教えられた。娼館の場所を聞き、そちらに向かう。

 気分が悪くなってきた。むかむかと腹立ちがこみあげてくる。セリウスは春をひさぐという行為が許せなかった。
 神官になるべく教育を受けたセリウスにとって性は神聖であるべきもので、ただ快楽を求めるためにみだりに交わってはならないと考える。だから男を堕落に誘う娼婦という存在そのものを嫌悪していた。

 踊っていた娘は心から楽しそうだった。あんな若さで昼日中から媚びを売っていたのだと気付くと、追いかけて叱ってやらなければ気がすまなかった。

 ──今の娘を選ぶのですか?

 ずんずん先をいくセリウスに追いついてきたイケイルスが問う。
 それを聞いてセリウスははたと立ち止まった。娘一人を叱りつけに行ってる場合ではない。時が限られていた。急なことだが、今晩の満月に生贄は捧げられる。それまでに生贄を離れた都市、旧都ラティナまで運ばなくてはならない。

 イケイルスの言葉が時遅れて思考に上ってきた。そうか、今の娘を生贄にすればいいのか。白昼の下踊るなどといういかがわしさは許し難いが、そんな倫理観を持った自分でさえ目を奪われるほどの娘ならばきっと神も満足してくださるだろうと。
 それにあの娘も、身を汚しつづけるより神に捧げられた方が幸せだとも考えた。

 一旦止めていた足は、今度は娘を生贄にすべく動き出す。

 娼館で提示された娘の値段は驚くほど高かった。奴隷の相場は案外こんなものかと思いつつ、今まで帝国からいただいてきたの報奨のほとんどをつぎこんで娘を買い取った。

 目の前に連れてこられた少し怯えを含んだ娘を見下ろして、一瞬かわいそうに思った。しかし同情は禁物だった。任務は確実に遂行しなくてはならなかった。


 ──・──・──


 何故あの娘を選んでしまったんだろう。
 あのときは正しかったと思ったのに、今では後悔ばかりだ。

 ──どうしてあたしだったの?

 憔悴して体の力を失い、カスケイオスに抱き取られた娘の呟きに胸を突かれた。自分の考え無しな行動を責められた気がした。

 頭を抱えたセリウスに、隣に座って黙っていたカスケイオスが言った。

「もう一つ噂があったんだ。市場で踊っていた娘にその貴族が一目ぼれしたんじゃないかってな」

 セリウスは信じられないという顔をしてカスケイオスを見た。

 自分が恋をしたと自覚できないセリウスに、カスケイオスはためいきをつく。
「取り憑かれたように娘のことを訊ねて、懸命に追っていったというぞ」

 自分が恋に落ちたなんて信じられないけど、何故か腑に落ちる気持ちがした。

「無意識に出会いを逃すまいとしたんだろうな。でもそのときのおまえは生贄を選ぶ使命を負っていた。恋の自覚がなかったから、安易に使命と結びつけちまった」

 カスケイオスの言うとおりだと思った。初めての気持ちに翻弄されて、先のことを考えずに行動した。

 今ならわかる。
 太陽の下、太陽より輝いていた娘に惹き付けられて、見失うまいと必死に追いかけていただけなのだと。

「他の出会い方だってあったろうに。だがこんなことでもなきゃ、おまえは自分の気持ちに気付くこともなかったんだろうな」
 カスケイオスが空に向かって呟いた。
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