生け贄の踊り子は不遇の皇子に舞いを捧ぐ

53、新たな一歩

 集合住宅(インスラ)の中庭に面した店の入り口から中をうかがう。

 裏口からすぐの場所は調理場になっていて、セヤヌスが店に出す料理の下ごしらえをしていた。
「今、入っていい?」
 遠慮がちに顔を出したユノに、セヤヌスは穏やかに笑いかける。
「誰もいないよ。どうぞ」

 ユノは扉の隙間から滑り込んだ。中に入り頭から薄布を取ってほっとすると、横からおどろおどろしい声がかけられる。
「ユーノー」
 ユノは思わず肩をすくめた。

 声の主は手を伸ばしてきて、容赦なくユノの耳を引っ張る。
「まぁたあんたはぁ!」
「いた! いたたたたい! 他に誰もいないって言ったじゃないのよ、セヤヌス!」
「あ、ごめん。ニカレテ以外誰もいないよって意味だったんだけど」
 悲鳴をあげているユノに、セヤヌスはおっとりと謝る。わざとではなく、こういうのんびりした人物だから始末に負えない。

「あんたって子はもー! 自分の立場がわかってんのかしらね!? 勝手に出歩いたりして誰かに見付かったらどうすんの!」
「ごごごごめんなさい!」
「こんな調子でしょっちゅう出歩いてるんじゃないでしょうね?」
 ニカレテはため息をついて、引っ張り上げていたユノの耳を離した。

 耳をさすりながらユノは答える。
「あんまり出歩いてないってば」
 ニカレテはちらり睨む。
「あんまり?」
「う、ううん全然! ニカレテがいいって言うとき以外は出歩いてないわ。今日はちょっと相談したいことがあって」
「何だい? 話なら食事に降りてきたときにすればいいのに」
 朝晩の食事は他の子たちとずらした時間に降りてきて食べている。

「うん……そうしようかとも思ったんだけど、決心が鈍らないうちに、セヤヌスにニカレテへの伝言を頼もうかなぁって思って」

 言いよどむユノにニカレテは片眉を上げた。
「何だい? 会っちまったからには今言えばいいよ」
「あのね、そろそろ仕事しようと思うの。……あたし生娘だけど、デビューなんて派手なことはできないでしょ? それでどうしたらいいかなぁって

 ニカレテはため息をついて肩を落とす。
「前にも言ったと思うんだけど、あんたはもうあたしのものじゃないんだよ。あんたの言葉を信じてかくまってるけど、ほとぼりがさめたらあんたを買い取った貴族に連絡取ってあんたを返すつもりだった」
「でももう、返せないでしょ?」
 健気に笑ったユノを見て、ニカレテは黙りこくった。

 セリウスが今度正式に即位する新皇帝であることはニカレテも知っている。皇帝に内密に連絡を取るなんて解放奴隷であるニカレテにも、ニカレテの後見人の下級貴族にも無理だ。そしてユノは死んだはずの奴隷、真っ当に返しに伺ったりしたらいらぬ騒ぎになる。

「いつまでもお世話になりっぱなしになってるわけにはいかないから、仕事回してくれていいよ」

 ユノより背の高いニカレテは、ユノを同情の目で見下ろした。
「でもあんた……できるのかい?」
 ユノはびくんと体を震わせた。

 事情を話したとき、あまりに悲しくてユノは泣いてしまった。だからニカレテは知っている。ユノがセリウスに恋をしたことを。
 娼婦が恋をするもんじゃないと教えたのはニカレテだった。けれど恋はするなと言われてしないでいられるものじゃないことも知っている。泣きじゃくるユノを、ニカレテは長いこと肩を抱いてなぐさめてくれた。

 そのときのことを思い出すと、目端に涙がにじんでくる。
 辛いけど、そろそろ思い切らなければ。
「きっと何とかなるわ。最初は寝っ転がってればいいんでしょ? それでいいって客、ニカレテが選んでよ」
 わざと能天気に言う。

 最近ではユノの能天気が強がりだと、ニカレテにもわかるようになった。強がることで自らを奮い立たせ、運命と向き合おうとしている。

 話を終えたユノは、裏口に向かった。
「じゃあ戻るね」
「見られないように気を付けるんだよ。間違ってもどっか出かけて踊ってくるんじゃないよ!」
「はぁい」
 ユノは笑って二人に手を振り、薄布を目深に被って出て行った。


 扉が閉まるとセヤヌスはニカレテに声をかけた。
「まだユノに教えてやらないのかい?」

 ニカレテは玉葱の皮むきを手伝いながら答える。
「そういう約束だったからね」
「でも、ユノがかわいそうだよ」
 セヤヌスはむかれた玉葱を刻みながら、ときおり豆を煮込む鍋をかきまぜる。

 ニカレテは手を止めて表情を険しくした。
「だけど下手に話してぬか喜びってことになったらどうするの? あとからくる絶望を思ったら知らない方がましってことだってあるわ」

 ニカレテがつらそうに言うので、セヤヌスは話を変えた。
「それで、本当にユノに客を取らせるのかい?」
「……祝賀には地方の貴族が集ってくる。ブリタニクス様もウチの子たちを接待に使いたいって言ってたし、その時にでも出そうと思うよ。……うまくすれば愛人としてもらってもらえるかもしれないし」

 好きな人のいる都市で仕事をするのは辛かろう。
 あの子には運がある。
 娼婦の仕事を始める前に買い取られて、生贄として神に捧げられるはずが死を免れた。宴席に生娘は珍しい。地方の貴族がその珍しさを買って、所領に連れ帰ってくれるかもしれない。

「そうだね。この街で暮らすよりはその方が」
 セヤヌスが言いかけたところで店の入り口が叩かれた。
 二人は顔を見合わせる。もうすぐ午後にさしかかる。こんな時間に客なんて、めったにあることじゃない。
 二人が覚えているだけで、今回が二回目。

「ニカレテ……」
 セヤヌスはにわかに顔をほころばせる。そんなセヤヌスを睨め付けてまだ早いとたしなめるニカレテの顔もゆるんでくる。
 手を拭きながらニカレテが店内に入ると、店の入り口が勝手に開いた。
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