生け贄の踊り子は不遇の皇子に舞いを捧ぐ
54、お客
部屋に戻ったユノは臥台に座り、紡いだ糸で服の中に下げていた指輪を取り出した。
別れ際にセリウスがくれた。
必要になったら金に換えてくれと言われたけれど、未だに手元に置いていた。世話になりっぱなしのニカレテにも内緒だ。
だってこれしかセリウスとの思い出のよすががない。とはいえ、これがあるから今まで思い切ることができなかったともいえる。
この指輪をどうするか、ユノは決めあぐねていた。
ユノの今の立場は不安定だ。ユノは死んだことになっている。戦場で神に命を捧げたことになっているユノがまだ生きていると知られるわけにはいかない。
知られたらどうなるかわからない。改めて神に捧げられることになるのか、既に捧げられ現在帝国に加護をもたらしているとされる女が生きているとなると都合が悪いから人知れず殺されるか。
知られてしまいそうになった段階で、ニカレテに追い出されるかもしれなかった。ニカレテにだって立場があるし、ユノをかばって他の子たちを不幸にするわけにはいかない。
追い出されたとき、この指輪は役に立つだろう。
けれどこの指輪を所有しながら、セリウスじゃない男に身を差し出すことができる自信がなかった。
ニカレテにはもう告げてしまった。後戻りはできない。
数日の間に覚悟を決めなくちゃ。
扉が叩かれ、ユノは飛び上がった。
「はっはい! 」
「ユノ、お客さんだよ」
ずくん、と心臓が強く痛んだ。
さっき話をしたばかりなのに早すぎる。
「も、もうお客をみつけてきたの? 仕事が早いなぁ、ニカレテは」
冗談めかしてユノは声の震えを隠そうとした。
「馬鹿言ってないでさっさと開けてちょうだい。やばいんだから」
苛立つニカレテの声に、ユノは慌てて扉の鍵を抜いた。
やばい?
怪しげな客なのだろうか。怖くなったけど、開けないわけにはいかない。
悲壮な覚悟で扉を開くと、呆れ顔をしたニカレテが目の前にいた。
「あんたの強運にはホント頭が下がるよ。ほら、見つかったらやばいんだからお客を早く部屋の中に入れてちょうだい」
ユノが内開きの扉を大きく引くと、低い戸口を客は少し頭を下げて入ってきた。
「話がついたら降りてきてくださいな。くれぐれも他の人に見られないようにお願いしますよ」
「ありがとう」
言葉を交わしニカレテが去っていく気配がした。客は扉をぴったり閉める。
ユノは、お客を見上げて呆然としていた。
「ユノ」
お客──セリウスは、嬉しそうな顔をして名前を呼ぶ。
「どうして、ここに……?」
驚くばかりのユノに、お客は表情を曇らせる。
「迷惑だったか?」
ユノは慌てて首を振った。
「そうじゃなくて! 帰ってくるのは数日後じゃなかったんですか?」
肌が焼けて幾分かたくましくなった感じがするけど、この一年ずっと思い浮かべてきた顔だった。
ユノは気が動転した。不意に夢の世界に入り込んでしまったようで混乱する。嬉しいはずなのに、焦った。
「それにどうしたんですか? その格好」
セリウスは自分を見下ろしてああと呟いた。
「貴族の服では目立ちすぎるから」
セリウスが着ているのは黒っぽい布地のチュニカだった。履物も貴族の履く短いブーツ(カルケウス)ではなく質素なサンダルだ。格好だけ見れば庶民と変わらない。
確かに貴族の服では目立つだろうけど、貴族で、しかも皇帝ともあろう方がこのような格好をしていていいのだろうか。
「そ、そういうことじゃなくて……」
ユノは何を言っているかわからなくなってきた。よろけてあとずさり、臥台に足をぶつけて座り込んでしまう。
「ご、ごめんなさい。何が何だか、もう……」
ユノは両手で額を押えてうつむいた。落ち着かなくては話にならない。
そんなユノの前に、セリウスはしゃがみ込んだ。
「約束通り迎えにきたんだ」
「は? 」
「帝国軍総指揮官に就任するために一度首都に戻ったとき、ここのご主人に頼んでおいたんだ。君を、私が迎えにくるまで預かっていて欲しいと」
ぐちゃぐちゃに考えていたことが一気に吹っ飛んだ。ユノは顔を上げ、まじまじとセリウスを見つめる。
「……やっぱり迷惑だったのか?」
ユノは首を横にふった。
「そうじゃなくて、貴方様は皇帝位にお就きあそばされてのではないですか」
落ち着いてきて、ユノは貴族に使う言葉を取り戻す。
「皇帝が奴隷の愛人を持つなど外聞悪すぎます。許されることではありません」
「だろうな」
セリウスはあっさり返事した。
ユノはあからさまにがっかりする。だったら何故、この人はここへ来たのか。
恨めしい気持ちで見つめると、セリウスは微笑んでとんでもないことを口にした。
「帝位を譲ってきた」
別れ際にセリウスがくれた。
必要になったら金に換えてくれと言われたけれど、未だに手元に置いていた。世話になりっぱなしのニカレテにも内緒だ。
だってこれしかセリウスとの思い出のよすががない。とはいえ、これがあるから今まで思い切ることができなかったともいえる。
この指輪をどうするか、ユノは決めあぐねていた。
ユノの今の立場は不安定だ。ユノは死んだことになっている。戦場で神に命を捧げたことになっているユノがまだ生きていると知られるわけにはいかない。
知られたらどうなるかわからない。改めて神に捧げられることになるのか、既に捧げられ現在帝国に加護をもたらしているとされる女が生きているとなると都合が悪いから人知れず殺されるか。
知られてしまいそうになった段階で、ニカレテに追い出されるかもしれなかった。ニカレテにだって立場があるし、ユノをかばって他の子たちを不幸にするわけにはいかない。
追い出されたとき、この指輪は役に立つだろう。
けれどこの指輪を所有しながら、セリウスじゃない男に身を差し出すことができる自信がなかった。
ニカレテにはもう告げてしまった。後戻りはできない。
数日の間に覚悟を決めなくちゃ。
扉が叩かれ、ユノは飛び上がった。
「はっはい! 」
「ユノ、お客さんだよ」
ずくん、と心臓が強く痛んだ。
さっき話をしたばかりなのに早すぎる。
「も、もうお客をみつけてきたの? 仕事が早いなぁ、ニカレテは」
冗談めかしてユノは声の震えを隠そうとした。
「馬鹿言ってないでさっさと開けてちょうだい。やばいんだから」
苛立つニカレテの声に、ユノは慌てて扉の鍵を抜いた。
やばい?
怪しげな客なのだろうか。怖くなったけど、開けないわけにはいかない。
悲壮な覚悟で扉を開くと、呆れ顔をしたニカレテが目の前にいた。
「あんたの強運にはホント頭が下がるよ。ほら、見つかったらやばいんだからお客を早く部屋の中に入れてちょうだい」
ユノが内開きの扉を大きく引くと、低い戸口を客は少し頭を下げて入ってきた。
「話がついたら降りてきてくださいな。くれぐれも他の人に見られないようにお願いしますよ」
「ありがとう」
言葉を交わしニカレテが去っていく気配がした。客は扉をぴったり閉める。
ユノは、お客を見上げて呆然としていた。
「ユノ」
お客──セリウスは、嬉しそうな顔をして名前を呼ぶ。
「どうして、ここに……?」
驚くばかりのユノに、お客は表情を曇らせる。
「迷惑だったか?」
ユノは慌てて首を振った。
「そうじゃなくて! 帰ってくるのは数日後じゃなかったんですか?」
肌が焼けて幾分かたくましくなった感じがするけど、この一年ずっと思い浮かべてきた顔だった。
ユノは気が動転した。不意に夢の世界に入り込んでしまったようで混乱する。嬉しいはずなのに、焦った。
「それにどうしたんですか? その格好」
セリウスは自分を見下ろしてああと呟いた。
「貴族の服では目立ちすぎるから」
セリウスが着ているのは黒っぽい布地のチュニカだった。履物も貴族の履く短いブーツ(カルケウス)ではなく質素なサンダルだ。格好だけ見れば庶民と変わらない。
確かに貴族の服では目立つだろうけど、貴族で、しかも皇帝ともあろう方がこのような格好をしていていいのだろうか。
「そ、そういうことじゃなくて……」
ユノは何を言っているかわからなくなってきた。よろけてあとずさり、臥台に足をぶつけて座り込んでしまう。
「ご、ごめんなさい。何が何だか、もう……」
ユノは両手で額を押えてうつむいた。落ち着かなくては話にならない。
そんなユノの前に、セリウスはしゃがみ込んだ。
「約束通り迎えにきたんだ」
「は? 」
「帝国軍総指揮官に就任するために一度首都に戻ったとき、ここのご主人に頼んでおいたんだ。君を、私が迎えにくるまで預かっていて欲しいと」
ぐちゃぐちゃに考えていたことが一気に吹っ飛んだ。ユノは顔を上げ、まじまじとセリウスを見つめる。
「……やっぱり迷惑だったのか?」
ユノは首を横にふった。
「そうじゃなくて、貴方様は皇帝位にお就きあそばされてのではないですか」
落ち着いてきて、ユノは貴族に使う言葉を取り戻す。
「皇帝が奴隷の愛人を持つなど外聞悪すぎます。許されることではありません」
「だろうな」
セリウスはあっさり返事した。
ユノはあからさまにがっかりする。だったら何故、この人はここへ来たのか。
恨めしい気持ちで見つめると、セリウスは微笑んでとんでもないことを口にした。
「帝位を譲ってきた」