美術部ボーイズ
1
真っ赤な絵の具をたっぷり乗せた筆を、紙に押し付ける。少しの弾力の後、使い慣れた筆の毛は柔らかく曲がった。腕を動かす。夕日の部分は、たちまち紅く染まり真っ白な紙に美しく映える。
桑原晶は少し息をついた。再び、筆に絵の具を付けた時に机がぎしりと軋む。隣に座っている並木留生が上体を机に預け、掠れた声を出した。
「あっちぃー。何なん、この暑さは。まさかエアコン、壊れとんちゃうやろな。全く、涼しくないんやけど。これやったら、逆に外の方が涼しいで」
思わず苦笑する。留生の向かいにいる横沢広樹も、少し肩を竦めた。
兵庫の南に位置する大和川町は、山に囲まれ、海に面している。そのせいなのか、夏は湿度も温度も高くなるのだ。雨もあまり降らず、風は塩を含み粘り気がある。五時になっても、その暑さは変わらず、美術室にも日光が降り注いでいた。エアコンをつけているとはいっても、人が多いせいでなかなか涼しくならない。じっとりと汗が浮かんでくるような蒸し暑さで、絵を描くのが嫌になるのも無理はなかった。
「しょうがないんじゃない?美術室、広いから。やっぱり、行き届かないんでしょ」
広樹は、三年ほど前に東京から引っ越してきた。今でも、関西弁ではなく標準語を話す。おだやかな言葉に、呆れたような声色が含まれていた。それを感じ取ったのか、留生は唇を突き出した。
「それは分かってるけど。こんな暑い日に、熱気むんむんの部屋で作品作り?そりゃ、やる気も出えへんわ」
「だけど、文化祭の作品だよ?美術部なんて、文化祭ぐらいでしか輝けないんだし。それに留生、絵上手でしょ」
「こんなん、子供の落書きや。上手なんて、お世辞でも言えへん。人様に見せられるような品物では、ございません」
「お前なあ、部員の中で二番目に上手いって先生に言われとうくせに、なにが子供の落書きや。大勢の人を敵に回したな」
「あんなん、昔の話だし。その時は、晶が一番だっただろ。晶のほうが凄いって」
唇の端を上げる。謙遜するつもりも、凄いだろと手放しで自慢するつもりもなかった。努力して、勝ち取った栄光だ。当然の結果だとさえ思った。照れくさい、恥ずかしいなんて微塵も感じない。
絵を描くのは昔から好きだった。親が絵画が好きで、美術館に良く行っていたのが影響したのだろう。数々の画家の絵を見た途端、その魅力に引き込まれた。風景画、人物画、自画像。様々な種類があったが、全てがいきいきとしており、生きていた。絵画に生きているという言い方は、可笑しいかもしれない。しかし、確かに生きていた。心に鮮明に飛び込んでくる。そこは、身分の違いも貧富の差も関係ない世界だった。絵が好きだ。絵を描きたい。心から願った人が描いた絵が集まっている。魅入られた。美術部に入ることも、小学校の時から決めていたのだ。そんな思いで描いてきた絵を褒められ、恥ずかしいわけがない。
ただ、周囲の反応が不快だった。
「この中で、一番上手なのは桑原君かな。皆も、桑原君をお手本にして描くようにしてね」
顧問の中尾先生が微笑んだ瞬間、多くの視線が自分を捉えるのが分かった。
驚き、感心、妬み、怒り、悔しさ。
様々な感情がごちゃまぜになって、絡みついてくる。先程まで笑顔で話していた同級生が、一転して晶を強く睨みつける。和気あいあいとした雰囲気は消え、代わりに冷えた空気が流れる。
不快だった。そんな過ごしにくい状況にも、すぐに手のひらを返す同級生にも、晶が一番だと告げた先生にも、きっかけとなった自分にも虫酸が走る。背筋に冷たい汗が流れた。
ほんの短い時間だったが、あの時の息が詰まるような感覚は一ヶ月以上たった今でも体に残っている。絵を描く度に受ける、部員達の不躾な視線が鬱陶しかった。
「それより、お前らは何描いとん?おれは、秋の夕焼けやけど」
「おれは、夏で向日葵。花の中で一番好きなんだよな。明るくて、夏っていう感じがするし」
「僕は、冬の雪だるまだよ。作るの楽しいし、可愛いもん」
ふうん、と返す。今の時期は、全員が文化祭の作品作りを行っていた。今年のテーマは「四季」なため、好きな季節の絵を描かなくてはならない。晶はすぐに夕焼けを描こうと決めた。夕日が落ちる瞬間に漂う寂しげな雰囲気。それが、絵と同じくらい好きなのだ。面倒くさいとは思わない。自分が好きな物を描くほど楽しいことはなかった。
そういえばと留生がおもむろに顔を上げて、目をくるりと動かした。
「美術部って、地味よなあ」
「……何で、急にそんな話題?」
「運動部の奴らにめっちゃ、馬鹿にされるねん。美術部は、楽でええよなあって」
「それ、ほんまに馬鹿にしとうか?羨ましがっとうだけやろ」
「いーや。あれは、絶対に馬鹿にしてた」
留生が顔に掌を押し付ける。変顔に、広樹が勢い良く吹き出した。留生がその顔のまま、晶の方を見てにやりと笑う。
「な?美術部って、地味やろ。おれ、悔しいねん」
「悔しい?何がや」
「だから、運動部に馬鹿にされること。こっちやって頑張っとうのに、認めてもらわれへんねんで。それって、やっぱ悔しいやろ」
「そうかあ?」
運動部が、美術部は緩いと馬鹿にしていることは知っている。面と向かって言われたことも、何度かあった。でも、悔しいとは思わない。美術部は、美術部なりに頑張ればいい。運動部だって、美術部より明らかにしんどい部活をこなしているのだから羨ましがるのは仕方ないことだろう。
放っとけばいいんや。いちいち、腹を立てたり突っかかりしてたらお前がしんどいだけやで。
「じゃあ、文化祭で目立ったらいいじゃん」
やっと落ち着いた広樹が、涙をふきながら言った。留生が鉛筆をくるりと回す。
「文化祭?」
「そ。美術部なんて、文化祭ぐらいでしか目立てないんだし。今年の文化祭で、見返してやったら?」
留生が腕を組んで首を傾げる。伸びかけの前髪をいじる。昔からの癖だった。納得いかないことがある時、自分の思い通りにならない時に、良く前髪を触る。
「何か、違うんだよなあ」
「何が?」
「なんかさあ……文化祭だけ頑張れるんじゃなくて……。普段から思って欲しいというか……。上手く言えへんわ」
照れくさそうに留生が笑う。
思わず舌を鳴らす。苛立っていた。留生の不安そうな言い方や、はっきりとしない態度に苛ついてしまう。言いたいことがあるんだったら、はっきり言え。そんなに自信なさそうに途切れ途切れで話すんだったら、いっそのこと何も言うな。つい思ってしまう。そして、そういう考えしか出来ない自分にも腹が立つ。
駄目だね。そんなんだから、裏切られるんだよ。
「へえ」
広樹が眉をひそめた。考え込むように、下を向く。
「普段から、美術部も頑張ってるなって思ってほしいっていうこと?」
「そういうこと」
留生が指を鳴らす。ぱちんと乾いた音がした。
「分かった。僕も協力して頑張るよ。晶も一緒にやろ」
「何でおれもやらなあかんのや。アホくさ」
「そんなこと言わずに。一緒に楽しくやりましょ」
留生と広樹が嬉しそうにハイタッチをする。
あほらしい。強く思う。そんなこと、どうでもいいだろう。それより、絵を描いていたほうがよっぽど有意義だ。
窓の外を見る。グラウンドは強い日光で光り輝き、空にはたっぷりの絵の具で塗ったたような綺麗な青空が広がっていた。
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