美術部ボーイズ
2
留生と広樹と別れ、家に帰ると兄の碧人がキッチンに立っていた。通販で安く買い取ったという、犬がプリントされたエプロンを着て鍋を熱心に覗き込んでいる。朝ご飯と晩御飯。一日二回の食事は、碧人が作ってくれていた。母親が育児をしてくれなかったので、産まれた時から世話を見てくれているのだ。料理の他にも、家事の大半を碧人はこなしていた。器用だと思う。どれだけ大学で疲れて帰ってきても、決してサボるようなことはしなかった。晶の喜ぶことを一番に考え、行動する。感謝している。いつもは、学校から帰ったら色々な話をするのだが、今日はそんな気分になれなかった。
足音を立てずに二階の部屋へ行く。ベッドに飛び込むと、スプリングが大きく鳴った。仰向きに寝転がり、シミのついた天井を見上げる。何年も前に買った時は、目にしみるような緑色だったのに、汚れてあの時のような鮮やかな色彩は消えていた。
─晶、今日いらいらしてる?様子が変だよ。
─早く家に帰って、休んだ方がいいんちゃうか。
熱気が溢れる美術室で、二人に言われたことが頭に浮かんでくる。驚いた。思わず相手の顔を見つめていた。自分はそんなに変だったのだろうか。人の感情を読み取ることが苦手な広樹でさえ聞いてきたのだ。心配そうに目をのぞきこんできた。そこまで、感情が顔に出ていたのだろうか。
拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走った。気持ちを外に出すなど、大嫌いなことだ。喜怒哀楽。自分の感情をさらけ出すようなことだけは、絶対にしたくない。それと同時に、他人に自分を分かられることも嫌だった。知ったふうに思いを代弁されたり、感情を読まれたりしたら、強い嫌悪感が湧き上がってくる。
お前はおれの何を知ってるんや。
一緒におる時間なんて短いのに、全部おれのことが分かるわけないやろ。
本人でさえ知らないことを、他人が理解していると言う。信じられない。傲慢すぎる。
今日もそうだった。二人が自分を心配してくれたことは分かっている。分かった上で、苛立ってしまう。
唇を強く噛む。奥歯がぎしりと鳴った。
「晶?開けてくんない?」
もうとっくに声変わりをすませた低い声が響く。碧人だった。ドアをテンポよくノックしてくる。舌を鳴らしていた。いつもなら、何も考えずにすぐにドアを開けただろう。しかし、今日は楽しく話す気分ではない。
「晶?入るで」
ベッドから体を起こす。ドアを薄く開け、体を滑り込ませるように碧人が入ってきた。部屋を軽く見回し、晶を見て目を細める。顔にいっぱいの笑みが浮かんだ。
「おかえり」
「……何の用や」
「あれ、今日は機嫌が悪いんやな」
髪を乱暴に掻く。ベッドに腰掛けてきた兄を睨むつける。
「何の用や」
「別に。用ってほどのことでもないな。晶におかえりって言ってないなと思って」
「それなら、もう目標は達成したわけやな。じゃあ、出ていってくれんか。これから、勉強するんでね。全く、学生は大変やわ」
「晩御飯も食べてないのにか?」
再び、舌を鳴らす。碧人の言う通り、いつも晩御飯を食べてから宿題をしていた。昔から変わってないので仕方がないのかもしれないが、家族に行動パターンを把握されているのは、かなりやりにくい。
さあ、どうする。もう、言い訳は無くなったぜ。
「お前のクラスに左利きの男子っている?」
「は?何やて?」
「だから、左利きの男子。お前と同じクラスにいるかなって思って」
眉を寄せる。碧人の言うことが理解できなかった。冗談なのか、本気なのか。身を乗り出してきた碧人を目でなぞるように見る。晶の視線にも決して目をそらさず、碧人は真っ直ぐ自分を見ていた。この顔は本気か。
ならばと、クラスの一人一人の顔を思い出してみる。利き手まで細かいことは分からなかったが、大体全員右利きだった気がした。
「いや、思いつかへんなあ。それがどうかしたんか?」
「今日買い物に行ってたら、歩道の脇に置かれてた自転車が倒れてきてさ。その時、お前と同じ制服で中一くらいの子が助けてくれたんだよ。その子が、左利きだったから同じクラスにいるかなって思って」
「で?その助けてくれた子が見つかったら、お礼とかを言いたいわけ?あの時は助けてくれてありがとう、チュッって」
「変な音が入ってるけど、お礼が言いたいっていうのは合ってる。ほんとに、心当たりない?」
「知らん。左利きかなんて、興味ないしな」
「まあ、それもそうか。ありがとな」
「じゃあ、もう台所に戻れ。聞きたいことは全部言ったやろ」
ひらひらと追い払うように手を振ったが、碧人は動かなかった。それどころか、シーツに手をついて身を乗り出してくる。思わず仰け反った。それを取り繕うために、口元に薄い笑みを浮かべる。
「何や。えらい、積極的やな。でも悪いけど、おれ女の子が好きなんや。お前の気持ちは嬉しいけどな」
静かな雰囲気を壊すように、舌はぺらぺらと良く回る。いつもの顔で笑って離れてくれるかと思ったが、碧人は一言も喋らず晶を見つめていた。
耐えられなくなって、目を逸らす。人とアイコンタクトを取るのは苦手だ。心を覗き込まれているような感覚を覚える。幼い頃からそうだった。つい嫌悪感を露にしてしまう。そのせいで、何度も怒りを受けた。
失礼でしょ。直しなさい。変わってる。
幾つもの罵倒や悪口を今まで言われてきた。しかし無意識にしてしまうのに、どうやって直せばいい。自分に抗ってまで、人と親交を深めようとは思わなかった。
「何があった?」
「やから、何もないって。ほんま、しつこい奴やな」
「何もないはずなわけないだろ。言いたくないのか?」
「言いたくないって言ったらどうするんや」
「その時は、もう部屋から出ていく」
「ほんまか?」
「どこを疑ってるんだよ。晶が嫌だったら出ていくって」
「ほんなら、もう出ていってくれ。何でもかんでも、あったことを喋る時期は卒業したからな。ほら、家事やって、まだ途中やろ」
「ふうん」
何か言いたげだったが、黙って横を向いた。もう追求なんかされたくない。早く一人になりたかった。
いらいらするほどノロイ動作で、碧人が立ち上がる。そのまま、部屋を出ていく碧人を見てふと思った。
大人が、自分に関わってくる他人が、鬱陶しく嫌になったのはいつからだろう。随分前からのようにも思えるし、つい最近からのようにも思える。思い出してみると小学校の頃は、注目を集めるのが凄く嬉しかった。周囲から褒めたたえられ、期待される。上手くいかなかったときは励まされ、心配してもらえる。嬉しかった。それが自分の誇りだと本気で思っていたこともあった。それが、いつの間にか心配され、期待され、注目されることが負担になっている。全てに干渉され、子供扱いされることの苦痛。過度な保護。迷惑な親切。のしかかるプレッシャー。もううんざりだ。
アホらし。幼稚園児じゃないんやから、そんなに面倒みられんでも生きていけるわ。 何度そう呟き、せせら笑っただろう。呆れる。呆れてしまう。こんな状況に陥っている自分が、誰よりも愚かで情けない。
腕を上に伸ばし、文庫本を取る。一枚一枚テープで貼り合わせた本は、もうボロボロになっていた。いびつに飛び出たページを指でなぞる。
引っ越す前に、今までやりたかったこと全部やろうと思ってな。すっきりしたわ。
何があっても、決して忘れない顔が目の裏に浮かんだ。あの嘲るような笑いも、吐き捨てるような言い方も、濁りきっていた目も全て昨日のことの様に覚えている。絶対に忘れない。今でも、あの時見た校舎裏の風景も、嗅いだ金木犀の香りも体に染み付いている。
足音を立てずに二階の部屋へ行く。ベッドに飛び込むと、スプリングが大きく鳴った。仰向きに寝転がり、シミのついた天井を見上げる。何年も前に買った時は、目にしみるような緑色だったのに、汚れてあの時のような鮮やかな色彩は消えていた。
─晶、今日いらいらしてる?様子が変だよ。
─早く家に帰って、休んだ方がいいんちゃうか。
熱気が溢れる美術室で、二人に言われたことが頭に浮かんでくる。驚いた。思わず相手の顔を見つめていた。自分はそんなに変だったのだろうか。人の感情を読み取ることが苦手な広樹でさえ聞いてきたのだ。心配そうに目をのぞきこんできた。そこまで、感情が顔に出ていたのだろうか。
拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走った。気持ちを外に出すなど、大嫌いなことだ。喜怒哀楽。自分の感情をさらけ出すようなことだけは、絶対にしたくない。それと同時に、他人に自分を分かられることも嫌だった。知ったふうに思いを代弁されたり、感情を読まれたりしたら、強い嫌悪感が湧き上がってくる。
お前はおれの何を知ってるんや。
一緒におる時間なんて短いのに、全部おれのことが分かるわけないやろ。
本人でさえ知らないことを、他人が理解していると言う。信じられない。傲慢すぎる。
今日もそうだった。二人が自分を心配してくれたことは分かっている。分かった上で、苛立ってしまう。
唇を強く噛む。奥歯がぎしりと鳴った。
「晶?開けてくんない?」
もうとっくに声変わりをすませた低い声が響く。碧人だった。ドアをテンポよくノックしてくる。舌を鳴らしていた。いつもなら、何も考えずにすぐにドアを開けただろう。しかし、今日は楽しく話す気分ではない。
「晶?入るで」
ベッドから体を起こす。ドアを薄く開け、体を滑り込ませるように碧人が入ってきた。部屋を軽く見回し、晶を見て目を細める。顔にいっぱいの笑みが浮かんだ。
「おかえり」
「……何の用や」
「あれ、今日は機嫌が悪いんやな」
髪を乱暴に掻く。ベッドに腰掛けてきた兄を睨むつける。
「何の用や」
「別に。用ってほどのことでもないな。晶におかえりって言ってないなと思って」
「それなら、もう目標は達成したわけやな。じゃあ、出ていってくれんか。これから、勉強するんでね。全く、学生は大変やわ」
「晩御飯も食べてないのにか?」
再び、舌を鳴らす。碧人の言う通り、いつも晩御飯を食べてから宿題をしていた。昔から変わってないので仕方がないのかもしれないが、家族に行動パターンを把握されているのは、かなりやりにくい。
さあ、どうする。もう、言い訳は無くなったぜ。
「お前のクラスに左利きの男子っている?」
「は?何やて?」
「だから、左利きの男子。お前と同じクラスにいるかなって思って」
眉を寄せる。碧人の言うことが理解できなかった。冗談なのか、本気なのか。身を乗り出してきた碧人を目でなぞるように見る。晶の視線にも決して目をそらさず、碧人は真っ直ぐ自分を見ていた。この顔は本気か。
ならばと、クラスの一人一人の顔を思い出してみる。利き手まで細かいことは分からなかったが、大体全員右利きだった気がした。
「いや、思いつかへんなあ。それがどうかしたんか?」
「今日買い物に行ってたら、歩道の脇に置かれてた自転車が倒れてきてさ。その時、お前と同じ制服で中一くらいの子が助けてくれたんだよ。その子が、左利きだったから同じクラスにいるかなって思って」
「で?その助けてくれた子が見つかったら、お礼とかを言いたいわけ?あの時は助けてくれてありがとう、チュッって」
「変な音が入ってるけど、お礼が言いたいっていうのは合ってる。ほんとに、心当たりない?」
「知らん。左利きかなんて、興味ないしな」
「まあ、それもそうか。ありがとな」
「じゃあ、もう台所に戻れ。聞きたいことは全部言ったやろ」
ひらひらと追い払うように手を振ったが、碧人は動かなかった。それどころか、シーツに手をついて身を乗り出してくる。思わず仰け反った。それを取り繕うために、口元に薄い笑みを浮かべる。
「何や。えらい、積極的やな。でも悪いけど、おれ女の子が好きなんや。お前の気持ちは嬉しいけどな」
静かな雰囲気を壊すように、舌はぺらぺらと良く回る。いつもの顔で笑って離れてくれるかと思ったが、碧人は一言も喋らず晶を見つめていた。
耐えられなくなって、目を逸らす。人とアイコンタクトを取るのは苦手だ。心を覗き込まれているような感覚を覚える。幼い頃からそうだった。つい嫌悪感を露にしてしまう。そのせいで、何度も怒りを受けた。
失礼でしょ。直しなさい。変わってる。
幾つもの罵倒や悪口を今まで言われてきた。しかし無意識にしてしまうのに、どうやって直せばいい。自分に抗ってまで、人と親交を深めようとは思わなかった。
「何があった?」
「やから、何もないって。ほんま、しつこい奴やな」
「何もないはずなわけないだろ。言いたくないのか?」
「言いたくないって言ったらどうするんや」
「その時は、もう部屋から出ていく」
「ほんまか?」
「どこを疑ってるんだよ。晶が嫌だったら出ていくって」
「ほんなら、もう出ていってくれ。何でもかんでも、あったことを喋る時期は卒業したからな。ほら、家事やって、まだ途中やろ」
「ふうん」
何か言いたげだったが、黙って横を向いた。もう追求なんかされたくない。早く一人になりたかった。
いらいらするほどノロイ動作で、碧人が立ち上がる。そのまま、部屋を出ていく碧人を見てふと思った。
大人が、自分に関わってくる他人が、鬱陶しく嫌になったのはいつからだろう。随分前からのようにも思えるし、つい最近からのようにも思える。思い出してみると小学校の頃は、注目を集めるのが凄く嬉しかった。周囲から褒めたたえられ、期待される。上手くいかなかったときは励まされ、心配してもらえる。嬉しかった。それが自分の誇りだと本気で思っていたこともあった。それが、いつの間にか心配され、期待され、注目されることが負担になっている。全てに干渉され、子供扱いされることの苦痛。過度な保護。迷惑な親切。のしかかるプレッシャー。もううんざりだ。
アホらし。幼稚園児じゃないんやから、そんなに面倒みられんでも生きていけるわ。 何度そう呟き、せせら笑っただろう。呆れる。呆れてしまう。こんな状況に陥っている自分が、誰よりも愚かで情けない。
腕を上に伸ばし、文庫本を取る。一枚一枚テープで貼り合わせた本は、もうボロボロになっていた。いびつに飛び出たページを指でなぞる。
引っ越す前に、今までやりたかったこと全部やろうと思ってな。すっきりしたわ。
何があっても、決して忘れない顔が目の裏に浮かんだ。あの嘲るような笑いも、吐き捨てるような言い方も、濁りきっていた目も全て昨日のことの様に覚えている。絶対に忘れない。今でも、あの時見た校舎裏の風景も、嗅いだ金木犀の香りも体に染み付いている。