薄羽蜉蝣
 与之介の過去に、そんなことがあったのか。
 ここで暮らしている様子を見る限り、そんな重い過去は微塵も感じないが。

「その後は長屋を転々としてたみたい。私も亭主と一緒になって伊勢屋を出たから、それからの詳しいことはわからないけど。そういや与之さんがここに来たのって、鬼神の玄八が死んですぐだったかね。初めはもっと暗かったんだよ。しばらく誰かわかんなかったね。子供たちが懐くようになって、笑うようになったんだ。あー、何かでかいこと抱えて来たなぁって思ったものさ」

「そうだったんですね」

「ここはそういう者が集う長屋だよ。むしろ、何か抱えてないといられないかもしれないね」

 そういうお駒は何を背負っているのだろう。
 ちらりと思ったが、皆が皆、人の過去を知っているわけではない。
 お駒はたまたま与之介のことを昔から知っていたから詳しいだけで、他の人はここまで知らないだろう。

 それでいいのだ。
 過去がどうでも、今のその人が信じられればそれでいい。

「……与之さんの過去がどうでも、今の与之さんを知っていれば、それでいい」

 ぽつりと呟くと、お駒が、にっと笑った。

「そうさ。過去に何かしら背負った者は、今を信じて貰うことで救われるんだ。鬼神の玄八だって、お佐奈ちゃんにただの商人だって信じて貰って救われた。玄八を討った与之さんも、お佐奈ちゃんが今の与之さんを好いてる、と伝えてやれば救われるよ」

「そんな簡単なものでしょうか」

 過去は消せない。
 死んだ人は、二度と帰らないのだ。

「与之さんは、盗人の玄八を斬ったことは後悔してない。与之さんも世話んなった、伊勢屋さんの仇だからね。ただ、お佐奈ちゃんの父親を斬った、という事実に苦しんでるんだ。お佐奈ちゃんが、父親を殺した与之さんを許せなくて苦しむのと同じだよ」

 ちらりと佐奈は、与之介の部屋を見た。
 あそこに、また通う日が来るだろうか。
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