薄羽蜉蝣
第九章
 結局与之介が戻らないまま、さらに十日ほど過ぎた。

 佐奈は河原から、子供たちを連れて長屋へと帰っていた。
 少し前で、朝太郎が棒切れを振り回している。

「朝太郎ちゃん、そんなもの振り回しちゃ危ないよ」

「大丈夫だよ。おっちゃんが帰ってきたら、剣術教えて貰うんだ」

 くるりと振り向き、朝太郎が言った。
 その途端、棒が朝太郎の手を離れ、傍の店に飛び込んだ。
 がらんがらん! と派手な音を立てて店の中に転がっていった棒切れを追って、朝太郎が店に駆け込んでいく。

「何でぇ、ガキ」

 中から野太い声がする。
 慌てて佐奈も店に飛び込んだ。

「す、すみません!」

 中に入って頭を下げると、一人の親父が棒切れを握って仁王立ちしていた。
 鋭い眼光の、いかつい親父だ。

「ごめんなさい! ほら、朝太郎ちゃんも謝りなさい」

 内心震え上がりながら、佐奈は再度頭を下げ、ついでに朝太郎の頭も押さえつける。
 しん、と落ちた沈黙に、そろそろと佐奈が顔を上げると、驚いた顔の親父と目が合った。

「……あの……」

 佐奈が恐る恐る声をかけると、親父は、我に返ったように、あ、と呟き、持っていた棒切れを差し出した。

「気ぃ付けな」

 一言だけ言って、こん、と軽く朝太郎の頭を叩くと、親父は棒切れを返した。
 佐奈はもう一度頭を下げ、朝太郎を促して、そそくさと店を出た。

「ふー。もぅ朝太郎ちゃん、気を付けてよ」

 店の外で大きく息を吐き、佐奈はちらりと振り返った。
 一見目立たない、小さな料理屋のようだ。
 河原に行くのに何度も通っているのに気付かなかった。

 まだ灯の入っていない提灯に、『鶴橋』と書いてあった。
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