薄羽蜉蝣
「あれが新宮様の恋女房ですかい」

 二階に上がってきた親父が、格子窓に寄りかかっている与之介に声をかける。
 格子窓からは、外の子供たちの賑やかな声が聞こえていた。

「いい加減、帰ってやりゃどうなんです」

「勇気が出ねぇ」

 向こうを向いたまま、ぼそりと言った与之介に、親父は、ぶは、と吹き出した。

「何を可愛らしいことを仰ってるんで。新宮様は、あの娘っ子のこととなると、子猫のように臆病になりますな」

「何とでも言え」

 親父にからかわれても、与之介は格子窓に寄りかかったまま。
 また佐奈に手を振り払われたら。
 またあの怯えた目を向けられたら、と思うと、帰る気になれない。

「けど、どうせ随分経っちまったから、どう足掻いても帰った途端大騒ぎですぜ」

 うう、と与之介が頭を抱えた。
 そうなのだ。
 さほど経たないうちに帰っておけば、そうそう騒ぎにはならないだろう。

 だがふた月近くも行方をくらませていた者がひょっこり帰ると、人情に篤い長屋では大騒ぎになるだろう。
 ガキどもも大騒ぎするに違いない。
 目立たずそっと帰ることなど不可能だ。

「あああ、ドジ踏んだ」

 もっとも与之介は、帰る気はなかったのだ。
 このままどこかに行くつもりだった。

 が、自分が思っていたよりも、遥かに己の心は佐奈に占められていたようだ。
 いざとなると、どこへも行けない。
 目と鼻の先の料理屋で、ぐずぐずと過ごしているうちに、ふた月も経ってしまったというわけだ。

「でも、ずっとここにいられても困るんですがねぇ」

「わかってるよ。ついては親父、新しい塒を探してくれ」

 ようやっと格子窓から身体を起こした与之介を、親父が探るように見た。

「いいんですかい?」

「ああ。早いほうがいい。どこだっていいさ」

 じーっと与之介を見、ふむ、と一つ頷くと、親父は思案顔になった。

「どこでもいいんでやすね?」

「ああ」

「今のところじゃなけりゃ、いいんでやすね?」

「ああ」

「後から文句は言わねぇでくださいよ」

「言わねぇよ」

「ほんとでやすね?」

 しつこいほど念を押し、親父はにやりと笑った。
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