薄羽蜉蝣
「あっしは、ちゃあんと念押ししましたよ? どこでもいい、文句は言わねぇってことでしたが?」

「い、言ったが……」

 これでは元の部屋を出た意味がない、と唸る与之介の肩をぽんぽんと叩き、親父は、くい、と佐奈を指した。

「意味はありやす。あの娘さんが、新宮様にお会いしてぇって言うもんでね。新宮様だって、このままどこぞへ逃げたって、どうせ娘さんのことは頭から離れねぇでしょ。だったらいっそのこと、面突き合わせてはっきりさせてしまいましょうや」

「はっきりさすって、何をだ。そんなこと……」

 恐ろしい、と与之介は背を向けた。
 爪が食い込むほど握り締めた拳が震えている。
 佐奈と向き合うのが恐ろしい。

「……ま、どっちにしろ前に進むためにゃ必要な関門でしょ。ふふ、こういうときは、女子のほうが強いねぇ。はっきりと、娘さんは新宮様にお会いしたいって言いやしたぜ。新宮様だってうちでぐずぐずしてたのは、娘さんに会いたかったからでしょう」

 もう一度、ぽん、と与之介の背を叩くと、親父は酒樽を背負って部屋を出て行った。
 しん、と静まり返った部屋の中で、しばらく空気は動かなかった。

 やがてかたりと音がし、佐奈が土間で何かを始めた。
 与之介は壁を向いたままだ。

 別に拘束されているわけではないので、出て行こうと思えば出て行ける。
 が、足に根が生えたように、与之介はその場に突っ立っていた。

 半刻もしただろうか。
 ふと気付くと、何やらいい匂いが与之介の鼻を刺激した。
 ついでに胃袋も刺激する。

 佐奈の気配が近くなり、しゅ、と衣擦れの音と共に物音が止んだ。

「与之さん」

 佐奈の声に、与之介は過剰に反応した。
 全身が強張り、汗が流れる。

「いつまで突っ立ってるんです。お座りになったら?」

 落ち着いた声で言われ、与之介は覚悟を決め、ゆっくりと振り向いた。
 膳が二つ、美味しそうな湯気を立てている向こうに、佐奈がいる。

 やはり目を逸らせた与之介は、土間に視線をやって、思わずぎょっとした。
 腰高障子には、がっちりと心張棒がかってある。
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