薄羽蜉蝣
「だって障子を開けたままだと、与之さんに逃げられてしまうもの」

 与之介の驚きに気付き、佐奈が、つん、と言った。
 心張棒だって、外せばいいだけなのだが。

「さ、暖かいうちにどうぞ」

 佐奈が、さっと手を出して、膳を勧める。
 膳に目を落とせば、腹の虫が素直に鳴いた。

 与之介は腰を落とした。
 だが膳の前ではなく、その横に膝をつき、佐奈に頭を下げる。

「すまない」

 はたして佐奈にかける言葉はどれが正しいのか。
 与之介の言葉に、佐奈は相変わらず落ち着いた声を返した。

「お夕餉だけに、そんな気を遣って頂かなくても結構よ。お裾分けと変わらないし」

「いや、そうじゃない」

「じゃあお部屋のことかしら? それもちゃんと了承してるから構わないわ」

「……」

 与之介はようやく、少し顔を上げて佐奈を見た。
 佐奈が、にこりと笑いかける。

「与之さんに謝られることは、それぐらいしか思いつかないのだけれど」

 ぐ、と膝の上の拳を握り、与之介は視線を落とした。

「気付いただろ。お佐奈さんの親父を殺ったのは、この俺だ。お佐奈さんの生活をぶち壊したのも俺なんだよ」

「そうね。父はあの男と同じように、頭にこれを刺して死んでたわ」

 がらん、と一振りの匕首が、与之介の膝頭に滑ってくる。
 あのときの匕首を、佐奈は持っていたのか、と与之介の心の臓が、どくりと音を立てた。

「ねぇ与之さん。与之さんの、その謝罪は、何に対して? 玄八を殺したこと?」

 ぴく、と一瞬与之介の身体が強張った。
 が、すぐに首を振る。

「俺は、玄八を殺したことは後悔してねぇ。悪いが、鬼神の玄八を殺したことに対しては、謝るつもりはねぇよ。ただお佐奈さんの親父を殺したことは別だ。あんたにとっては鬼神の玄八ではなく、単なる商人だったんだろ」

 かた、と音がし、ちょろちょろと小さな水音がした。
 淹れたお茶を一口飲み、佐奈が口を開く。

「難しいわ」

 ぽつりと言う。
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