薄羽蜉蝣
 日が落ちてから、与之介は家を出た。
 少し歩いたところに、『鶴橋』という一膳飯屋がある。
 与之介が暖簾を潜ると、眼付きの悪い親父が、何も言わずに酒と小鉢を用意した。

「昨日、万屋(よろずや)が見えられましたぜ」

 しばらくしてから、ぼそ、と親父が言った。

「玄八の右腕が、ようやっとお縄になったそうで」

「やっとか」

 頼んだ飯を食いながら、与之介はため息をついた。
 三年前、市中を騒がせた悪党・鬼神の玄八は討たれたが、右腕と称された相棒の弥七(やしち)は、その後姿を眩ませたままだった。

「万屋としても、これでやっと肩の荷が下りたってところだな」

「新宮様におかれましても」

「単なる浪人に、そんな畏まらんでもいい」

 そう言って、与之介は親父にも酒を注いだ。

「新しい仕事の口は、なかったか?」

「今のところは。この三年、弥七の行方を追ってばかりだ。万屋の執念を思えば、やっと無念を晴らせたんだ。ちったぁゆっくりしてぇんでしょう」

「ボケなきゃいいが」

 軽口を叩き、与之介は席を立った。
 店を出、川沿いの道を歩いて帰る。

 ふと、与之介は足を止めた。
 夜泣き蕎麦の屋台がある。

 ちりん。
 軒先に吊るされた風鈴が、小さく音を立てた。

---似ているな---

 肌に纏わりつく、この少し湿った生温い空気。
 空を見上げてみる。
 満月が、煌々と辺りを照らしていた。

 ふ、と笑い、与之介は再び歩き出した。
< 6 / 63 >

この作品をシェア

pagetop