くまさんとうさぎさんの秘密

エロス(恋愛)

by 時田 総一郎
何日か前の、彼女との会話をふりかえる。
確か、「この3人を知ってるか」と尋ねたが、馨は、「あんまり」としか答えなかった。
何か変だとは思った。いつもの彼女なら、知らない人だったとしても、俺が興味を持ったことには、何かコメントをくれる。でも、この時は、変に素っ気なく話題をそらされた気がしたし、、自分の担当教官が分からないはずないだろう。

俺達は、付き合い始めてから、ずっと一緒にいる。ちょっと迷ったけど、彼女にさらっと尋ねたところ、彼女はあっさりと白状した。
「あらら、時ちゃんに隠し事はできないね。」
「隠し事って??元指導教官だろ?」
「そうだよ。あんまり、反りが合わなかったの。始めは、尊敬してたんだよ。彼は、私に仕事のある部分を教えてくれた人であることは間違いないね。」
「そっか。」
「でも、だんだん、分かってくると、この人、済んだことばかり言ってて、何の進歩もないって分かってきちゃうじゃん」
「手厳しいね」
「誰にでも厳しいわけでも、きついわけでもないよ。私にだって、産みの苦しみみたいなもんも分かるし、何もできないままに苦しんで終わる人の惨めさも、私達の仕事が常にそういうこととせなかあわせだってことも、分かってるから、力不足だけなら責めたりしない。そういうのは、見て見ぬふり。お互いにね。でもさ、菱川は、踏みにじるんだよ。」
「踏みにじる??」
「他の人の頑張りを潰すの。」

「そっか。。何で黙ってたの?お前と何かあったの??」

中野馨は、黙りこんだ。。

中野馨は、業績上、指導教官に嫌がらせされたような形跡はない。むしろ、学位ももらっているし、共同で書いた論文も、単独で書いた論文も、無事に陽の目を見ている。。師弟関係は良好で、菱川の研究室の人間とも共同研究がある。

俺は、黙って返事を待っていたが、中野馨は、石のように固まったまま、じっと俺を見ていた。

引き際のようなものが大事だ。これ以上突っ込んで聞くべきでないと、話題を変えようとした時に、馨は口を開いた。

「恋は盲目ってやつ。」と、彼女は、はっきり言った。
何か言いかけた馨の口元が、何故かその時、スローモーションに見えた。

俺は、何故か焦った。
「馨、言いたくないなら無理に言わなくて良い。」俺は、早口で、馨の声を遮ろうとした。ちょっと叫んでいたかもしれない。俺は、何を焦ったんだろう。。

「薄々気がついてたんだよ。菱川は、私の前では見栄はるけど、空っぽなんだって。下の人が論文書くと、揉み消されたりするの。他にも色々嫌がらせされてる人がいたけど、ひとまず、私は無事だった。それで、彼に嫌がらせされてた人に、持ちかけたの。共著にしようって。菱川の前で、共著にした研究を誉めまくったの。そしたらさ、何も分かってないのに、「確かに素晴らしい」みたいなこと言うわけ。」
中野馨は、自分の指導教官の事を、「彼」と呼んだ。
彼女が言っていることは、俺の質問への返事にはなってない。

「私なりに、彼に嫌がらせされた人を庇いまくってたら、ある時、レフェリーがまわってきた。私は、自分にレフェリーが回ってくるようになってからは、意味のあるものが意味のある形で認められてるって信じてる。国立大の仕事は、客観的な業績評価があるから、受賞歴や論文無しにねじこむことは無理なのね。それに対して、そもそも、「プライベートな評価」こそが私立大学の存在意義なわけだから、菱川の弟子の中でも住み分けができてきたの。学会でも、運営や審査は官僚の仕事で、民間の融資、理事は私立大学の仕事で、うまい距離がとれてる。そもそも、これは、特別でもなく、嫌らしくもない話なの。実益が見越せても、資本がないのに投資家にもなれないし、資本があっても、実益産まないものに投資なんかできない。あっという間に何もかも失うから。私は、菱川は嫌がらせしたと思ってたけど、彼からしたら、自分の基準で人を裁いただけなのね。何の悪気もない上に、本当に薄っぺらいの。私だって、他人を庇うためとはいえ、彼に敵意を露にしたり、彼を問いただしたりなんて事は一回もしなかった。私が彼を敵にまわさないことで、助けられる人がたくさんいたから。」
中野馨は、俺の顔をまっすぐ見た。

「分かったよ。俺さ、お前は、ホントすごいと思うよ。だからさ、、」
多分、彼女は彼女の信念について話してるんだろうけど、匂わせるような遠巻きな物の言い方には、多分迷いがある。俺は、この手のパズルに、つい夢中になる方だ。
彼女は、目をそらした。
「私、嘘はつけないけど、見て見ぬふりはすんの。何でも話すわけでもないし。レフェリーなんて、絶対に言っちゃいけないことだから、誰かにこんな話するのは初めてだよ。時ちゃん、私のこと嫌じゃない??」
「嫌じゃないよ。嫌いなわけない。」
「時ちゃん、私、あの人嫌いなの。」
「分かったよ。」
「その事を考えると、自分の事も嫌いになるの。」
「そっか。」
「やっぱり嫌いにならない?」
「何故?」
「何となく。。」
「意外な感じはしたけど、嫌な感じしたことはないよ。」俺は、ちょっと嘘をついた。
「意外??」
「そう。馨、あんまり人と群れない感じがあったから、共著者とか、人間同士の交流もあるんだなぁって。」
「私、こう見えても教官だからね。」

学生に、モラル教えるのは、私の仕事ではないと、彼女は言った。彼女の明け透けな行動は、彼女の信念に根付いている。

そして、哲学の話になった。
彼女は、アリストテレスのエロスについて語った。元々は、性欲を表す言葉ではない。俺達なりの解釈で行くと、「理想に恋い焦がれる思い」とでも言うのだろうか。哲学、フィロソフィの語源は、彼女なりの解釈では、「知りたがる」ということだそうだ。
彼女は、「時ちゃんも、フィロソフィスト」と言って、笑った。
彼女は、理想そのものについて、何も語らなかった。けれど、彼女の求める「理想」について、研究者としての使命について、俺には分かるような気もしたし、これから共有できるものもあるかもしれないと思った。でも、、彼女が答えを他の男に求めたこともあったのかと思うと、ちょっと悔しかったりもした。彼女が彼を嫌いになったのは、期待したからだ。違うだろうか。。

中野馨の体は、今夜は、俺の腕の中にあった。けれども、その心も、理想も、あるべき姿も、今はまだ、彼女のその小さな体に、ちらちらと影を写すだけだ。






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