此華天女
鈍色の雲に覆われた富若内の港は寒いくらいだった。国の最北端にある港なのだから寒いのは当然のことかもしれないが、それでも桜桃は自分の服装が場違いなものであったと悟り、湾に愚痴を零す。
「……いま、早花咲月(さはなさづき)ですよね? どうしてこんなに雪が残ってるんですか」
「帝都と同じだと思ったら駄目だ。北海大陸でも富若内の寒さは尋常じゃないんだ。たとえ暦の上では春でも雪だって降るし積もるし残るし霜も立つ。要するに俺だって寒いんだよ!」
「……開き直らないでください」
はぁ、と息をつくだけでも白いものが混じる。
日の出とともに出航した船は、丸一日かけて無事に富若内港(とみわかないこう)へ到着した。
すでに時刻は夕方で、これ以上気温が上昇することは望めない。湾が手配した簡易民宿に入っても、身体は強張ったままだ。部屋のなかには申し訳程度に火鉢が置かれていたが、硝子戸のたてつけが悪いからか、隙間から吹き付ける冷風にぬくもりは相殺されてしまっている。
「ま、今夜はこれ以上動かないから心配するな。明日になったら目的地に連れていくぞ」
「はーい」
何者かによって桜桃が暮らしていた空我別邸を襲われて早二日。いま、命からがら逃げ出してきた桜桃は信頼できる異母兄、柚葉の母の姉婿、湾に連れられて、見知らぬ北海大陸の地にいる。
目の前で繰り広げられた惨劇を思い出すといまも吐き気を催すが、司馬浦港(しばうらこう)から船に乗っている際に船酔いと一緒に殆ど吐き出してしまったため、気分は悪くはない。
「寝台は嬢ちゃんが使いな」
「え、でも」
「俺は眠っているお姫様を坊に代わって護ってやらにゃならないからさ」
茶化すように湾は桜桃に囁き、両手で桜桃の冷え切った頬をやさしく撫でる。
「まだ何が何だかわからないことだらけだろうが、嬢ちゃんが焦ることはないよ。追手ならしばらく来ないだろうが、用心するにこしたことはねぇ……それに、むさくるしい男と同じ部屋で嬢ちゃんを寝かせるわけにもいかないだろ?」
「あたしは気にしないよ?」
「淑女たるもの気にしなくちゃいけません」
湾は桜桃が寝台に横になるのを見届け、柔らかな笑みを見せる。湾は、桜桃と血の繋がりはないものの立場的に伯父に近いものにあたる。それなのに、歳の離れた兄のように見えるから、桜桃もつい、甘えてしまう。
「いまはゆっくり休め。明日も出発は早いぞ」
「ん」
「なんなら子守唄でも歌うか?」
「湾さんが歌うの?」
「聴いたことなかったか? 坊にはよく歌ってやったんだが」
「聴きたい聴きたい!」
「よーし。それじゃあとっておきの歌を聴かせてやろう。北の大地に伝わる神々とともに春を言祝ぐ歌だ」
きょとん、とした桜桃の顔を面白そうに見つめて、湾は低い声で歌い出す。
「Shineanto ta shirprika kusu……」
それは、聴いたことのない、異国の言葉。子守唄と呼ぶには大仰で、神秘的な感じさえしてしまう。
それが北海大陸の先住民たちに受け継がれる神謡(ユーカラ)だと、桜桃は知らない。けれど、不思議と懐かしさ、愛おしさを感じ取った。神々とともに春の訪れを祝う歌。どういう意味があるのだろう……
心地よい声の揺らぎが睡魔を誘う。桜桃は湾の歌声に耳を傾けていたのに、いつの間にか夢を見ていることに気づかない。
「……いま、早花咲月(さはなさづき)ですよね? どうしてこんなに雪が残ってるんですか」
「帝都と同じだと思ったら駄目だ。北海大陸でも富若内の寒さは尋常じゃないんだ。たとえ暦の上では春でも雪だって降るし積もるし残るし霜も立つ。要するに俺だって寒いんだよ!」
「……開き直らないでください」
はぁ、と息をつくだけでも白いものが混じる。
日の出とともに出航した船は、丸一日かけて無事に富若内港(とみわかないこう)へ到着した。
すでに時刻は夕方で、これ以上気温が上昇することは望めない。湾が手配した簡易民宿に入っても、身体は強張ったままだ。部屋のなかには申し訳程度に火鉢が置かれていたが、硝子戸のたてつけが悪いからか、隙間から吹き付ける冷風にぬくもりは相殺されてしまっている。
「ま、今夜はこれ以上動かないから心配するな。明日になったら目的地に連れていくぞ」
「はーい」
何者かによって桜桃が暮らしていた空我別邸を襲われて早二日。いま、命からがら逃げ出してきた桜桃は信頼できる異母兄、柚葉の母の姉婿、湾に連れられて、見知らぬ北海大陸の地にいる。
目の前で繰り広げられた惨劇を思い出すといまも吐き気を催すが、司馬浦港(しばうらこう)から船に乗っている際に船酔いと一緒に殆ど吐き出してしまったため、気分は悪くはない。
「寝台は嬢ちゃんが使いな」
「え、でも」
「俺は眠っているお姫様を坊に代わって護ってやらにゃならないからさ」
茶化すように湾は桜桃に囁き、両手で桜桃の冷え切った頬をやさしく撫でる。
「まだ何が何だかわからないことだらけだろうが、嬢ちゃんが焦ることはないよ。追手ならしばらく来ないだろうが、用心するにこしたことはねぇ……それに、むさくるしい男と同じ部屋で嬢ちゃんを寝かせるわけにもいかないだろ?」
「あたしは気にしないよ?」
「淑女たるもの気にしなくちゃいけません」
湾は桜桃が寝台に横になるのを見届け、柔らかな笑みを見せる。湾は、桜桃と血の繋がりはないものの立場的に伯父に近いものにあたる。それなのに、歳の離れた兄のように見えるから、桜桃もつい、甘えてしまう。
「いまはゆっくり休め。明日も出発は早いぞ」
「ん」
「なんなら子守唄でも歌うか?」
「湾さんが歌うの?」
「聴いたことなかったか? 坊にはよく歌ってやったんだが」
「聴きたい聴きたい!」
「よーし。それじゃあとっておきの歌を聴かせてやろう。北の大地に伝わる神々とともに春を言祝ぐ歌だ」
きょとん、とした桜桃の顔を面白そうに見つめて、湾は低い声で歌い出す。
「Shineanto ta shirprika kusu……」
それは、聴いたことのない、異国の言葉。子守唄と呼ぶには大仰で、神秘的な感じさえしてしまう。
それが北海大陸の先住民たちに受け継がれる神謡(ユーカラ)だと、桜桃は知らない。けれど、不思議と懐かしさ、愛おしさを感じ取った。神々とともに春の訪れを祝う歌。どういう意味があるのだろう……
心地よい声の揺らぎが睡魔を誘う。桜桃は湾の歌声に耳を傾けていたのに、いつの間にか夢を見ていることに気づかない。