此華天女
   * * *


 桜桃は白いワンピース姿で、草原にひとり佇んでいた。緑の地面に縫い付けられるように、ところどころが白詰草の花で覆われている。
 薄着だというのに、肌を刺すような冷気を感じることもない。帝都ではない、北の大地にいるというのに。

「そうだ、あたし、湾さんに……」

 いつの間にか、眠っていたらしい。夢の世界だから、こうも無防備な姿で外にいられるのだろう。桜桃は夢なら何が起きても恐れることはないと頷き、そっと歩き出す。裸足のまま、ふっくらとした土に触れると、そこから一斉に萌芽し、蕾を膨らませ零れ落ちるように色とりどりの花が咲きはじめる。一面の緑はあっという間に塗り替えられ、咲き乱れた淡い色彩の花の絨毯ができあがる。
 呆然とする桜桃の耳に、春を言祝ぐ歌声が響いてくる。湾が歌った時は、古い言葉だったから理解できなくて眠ってしまったけれど、夢だからか、彼らの言葉が自然と理解できる。
 北の大地に天女が舞い降りて、時の花を咲かせに来たと。


「――咲くや此(こ)の華、今は春」


 冬将軍は去っていく。春が来た。春が来た。時の花を伴って。此の世界に華を咲かせに。
 なんとなく意味はわかるが、わからない単語もある。桜桃は咲き誇る花の絨毯にしゃがみ込んで、ぽつりと呟く。


「時の花、此の華……」
「ああ、こんなところにいたのか」

 思いだそうとしたところで、声をかけられて、桜桃は顔をあげる。

「え?」

 気づけば空には夜の帳。春が来て明るかった空はあっさり寝入ってしまい、桜桃の視界を暗闇で覆う。声をかけられても、それが誰だかわからない。

「――時の花を咲かす、天神の娘」

 間近に響いた囁き声にびくっと反応して、桜桃は立ち上がる。

「あなたは、誰」

 暗闇にぼんやり浮かびあがるのは、美しい容貌(かんばせ)。自分より高いところにある白い顔は、ぼやけている。黒か紺の服を着ているからか、全体もよくわからない。
 けれど、桜桃に向けて発せられる声だけは、はっきりしていた。低くて穏やかな男の人の声だ。

「それはまだ、教えられない」
「そんな……」
「天神の娘よ」

 桜桃のことをあらためて天神の娘と呼びかけて、男は囁く。

「ようこそ、北の大地へ。夢の残滓、カイムの根が拡がる土地に、いまこそ真まことの春を、呼ぶがよい」

 神々が邪悪なものに、食べられてしまう前に。


 ――そこで、目が覚めた。
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