此華天女
   * * *


「遅い」


 桜桃と湾が鬼造に案内された上階の部屋に到達したとき、先客は不機嫌そうな表情でふたりを見下ろしていた。真新しい濃紺のボレロを着ている。
 この女学校には制服ではなく標準服と呼ばれるものがあり、桜桃にも支給されることになっている。たぶん少女が着ているボレロがそうなのだろう。相変わらず寒そうな白いワンピースを着ている桜桃はあたたかそうだなぁと場違いな感想を抱きながらまっすぐに少女を見据える。そして黙り込む。
 黒髪を真っ赤な組紐でひとつに高く結いあげた背の高い少女は、凛とした面持ちをしている。気品も兼ね備えた知的な容貌は異性だけでなく同性をも魅了させるであろう美しさを称えている。すべてを飲み込むことが可能な漆黒の瞳を猛禽のように煌めかせる少女に、桜桃は何も言えなくなる。
 その横で、湾は予想以上の人物が自分たちを取り巻いていると知り、溜め息をつく。

「……よりによって」
「いくら信頼する人間がいないからってお前ひとりで連れてくる莫迦があるか! 逃走中に何かあったらどうしたんだ、軍部に連絡しろと言っただろ」
「時間がなかったんだよ! それに帝都内で諜報されたらそれこそ嬢ちゃんの身柄をこちらへ連れていくことができねーだろ」
「時間がないと言っておきながら宿をとって一晩ゆっくりしたのはどこのどいつだ。言い訳無用。そのうえ港に呼んでおいた箱馬車を勝手に使うとはいい度胸じゃねーか。こっちは誰かさんのせいでひとり騾馬に乗って丸一日駆けどおしする羽目になったんだぞ」

 富若内から潤蕊市内の陸軍駐屯地まで馬で走ってからこの冠理女学校へ潜入した旨を愚痴ると、湾が「あぁ」と今更のように頷く。

「それで富若内に竜胆の箱馬車が置いてあったのか……」

 桜桃は湾の呟きを耳にしてぎょっとする。あの箱馬車は自分たちのために準備されていたものではなかったのか……

「まったく。誰も彼も命令なんぞききやしない。逃走するならそれなりの準備をしていけ。言ってくれれば帝国海軍の船に乗せてやることもできたんだぞ」
「そんなことしたら皇一族がこの件にかかわってるってバレバレだろうが、こっちはこっそりと嬢ちゃんを北海大陸まで連れていきたかっただけで騒ぎを大きくしたかったわけじゃねーんだ」
「どっちにしろ手遅れだ。篁の名は明るみに出る」
「最悪だ」

 偉そうな少女とがっくり項垂れる湾の口論をおろおろしながら見つめていた桜桃は、意を決して口を挟む。

「あのー、つまり、どういうこと?」
「要するに、この学校はお前の安全な鳥籠の役割を果たさないということだ」

 湾はそのつもりで精一杯の動きをしていたようだがな。そう言い捨てて桜桃の顔を見つめる。自分の灰色がかった榛色の瞳や貧相な体つきが恥ずかしく思える。 端麗な容姿の少女に食い入るように見つめられ、思わず顔を強張らせてしまう。

「……空我桜桃、いや、この場では三上桜と呼んだ方がよいのだな。ミカミ……カイムたちのなかで高い身分にあたるカシケキクが名乗ったという苗字か。神を身に宿す一族、天神の、娘」

 女性にしてはすこし低い、威圧感のある声が耳元に響く。

「あたしのことを知ってるの?」
「知らん。俺が知ってるのはお前ではなく天神の巫女姫だ」
「……俺?」

 桜桃が目をまるくして少女と湾を交互に眺める。少女はハッとして口元を押さえるが、そのわざとらしい仕草が桜桃を苛立たせる。

「なんなのその傲慢な態度。あたしのことばかりべらべらべらべら喋ってないで、あんたも名乗りなさいよ。湾さんはあんたのこと知ってるみたいだけどあたしもあんたのこと知らないんだから。天神の娘のことだってつい最近きいたばっかりだし、それ以上わけわかんないこと言わないでくれる?」
「じょ、嬢ちゃん……」

 湾があちゃー、と額に手をあて更に項垂れる。その横で少女はつん、と顔を背けて言い返す。
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