此華天女
「こっちだってな、迷惑被ってるんだよ。お前が死ぬまで外の世界に出ないことで均衡は保たれていたってのにどっかの阿呆が得体の知れない天女伝説にかまかけて殺そうとするから……いっそのこと殺してもらった方がよかったかもな、こんな幼稚な女が天神の娘だなんて……」
「い、いま幼稚って……初対面の人間にそういうこと言う?」
「事実を口にして何が悪い? 何も知らずに鳥籠の中で安穏と暮らしていた小鳥ちゃん?」

 たしかに、事実だ。思わず口ごもる桜桃。

「……で、でも、すきでそういう状況にいたわけじゃないわ!」
「でも、知ろうとは思わなかった。お前の周りの人間は知っていたのに。愛妾の娘だからなどという下卑た理由で本来の真意を隠されて、汚されていることにも気づかないで。お前が北海大陸に古代よりつづくカイムのなかの一部族、至高神との契約を交わしたカシケキクの末裔であることも、母がふたつ名を持つ天神の娘であり結婚する前まで夢の世界を行き来する巫女姫であったことも何も」
「そこまでにしておけ、小環」

 ひたすら責めるような口調の少女に湾から制止の声がかかる。小環、と呼ばれた少女は自分がいま置かれている状況に気づき、顔色を変える。

「……っ」

 桜桃は泣いていた。言い返そうとして、何も言えなくて、泣いていた。殺されかかったときに泣くこともできなくて、逃げているあいだも泣いたりなんかしていなかったのに、こんなところで、こんな辛辣なことを口にするひとの前で、自分が泣くなんてと悔しがりながら、桜桃はぽろぽろ、ぽろぽろ涙を零す。声を押し殺して、必死に堪えながら、けれど顔をあげて相手を睨みつけることができなくて、重力に従って転がる水滴が床でちいさな池を作っていく。

 何も知らない。知らなくてもよかった時期は終焉を迎えた。自分はこれからひとりで知らされなかった、知ろうとしなかった現実と向き合わねばならないのだとわかっていたはずなのに……

「顔をあげろ」

 やがて、小環が桜桃の肩をぽんぽんと叩く。だが、その命令口調に桜桃は素直に従えない。

「……いやよ。あんたに命令される筋合いなんかないもの」

 泣きじゃくりながら弱々しく反論する桜桃に、小環が困ったように頭をかく。そして。

「頼む。顔をあげてくれ」

 優しく懇願する。

「さっきは言いすぎた。謝る」

 更に、謝罪の気持ちを告げる。

「ほんとに?」

 疑わしそうに桜桃がゆっくりと顔をあげる。泣き腫らした瞼と頬が、ほんのり薄紅色に染まっている。

「嬢ちゃん、こいつが謝ることは滅多にないぜ。許してあげな」

 湾がようやく落ち着いたかと疲れた笑みをふたりに向け、それぞれに言葉をかける。

「小環も、とっとと名乗れ。そうすればおあいこだろ」

 ふたりが同時に頷くと、それでよしと湾が頷き返す。

「……許すから、名前を教えて」

 先に口を開いたのは桜桃だった。小環は恥ずかしそうに顔を赤くして、小声で呟く。

「お前と同室で生活することになった篁小環だ」
「タカムラ・オダマキ……偽名よね?」
「苗字は彼から拝借したが小環は正式な名だ。ただ、世間では知られていないだけのこと」

 皇一族に関係する人間で、湾と対等というよりそれ以上の地位にある、自分と同年代の人物などいただろうか、と桜桃は首を傾げる。

「こう言えば、いくら世間知らずなお前でもわかるだろう。名治神皇帝第二公子、小環(しょうわ)」
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