此華天女
「――小環皇子っ」

 思いがけない名に、桜桃は唖然とする。
 その名は桜桃も知っている。いまをときめく神皇帝の息子の名前だ。
 たしか、名治神皇には結婚してから三人の息子がいるという。婚前に関係を持った湾の母、ユヱと異なり、彼らの母親は身分がしっかりしているため最初の妻も先妻亡きあとに娶られた後妻もひとくくりに正妻扱いされている。そのうちの前妻、蛍子ほたるこの息子が大松と小環だ。

「湾さんの異母弟さま、なのですわね」
「いまさらたどたどしい敬語を使うな。みっともない。それに、学校内では身分差など無用だ。小環と呼べ」

 呆れながら小環は桜桃の困惑した表情を見つめる。そんな小環を見て湾は苦笑する。

「嬢ちゃん、畏まる必要はないぞ。偉そうにしてるのも傲慢ぶってるのも素だから気にしないで言い返してやれ。小環もその方が気が楽だろ」
「偉そうとか傲慢ぶってるとか余計な言葉が多いです義兄上あにうえ」

 ぷい、と顔を背けて小環はようやく湾を義兄と呼ぶ。

「……ほんとに皇子さまなんだ」

 桜桃はそんなふたりを見て、はぁと息をつく。湾も小環も端正な顔立ちをしているが、どちらかといえば湾の方が野性的で荒々しい印象がある。だからといって小環が弱々しく見えるのかといえばそうではない。神秘的で近寄りがたいところはあるが、逆に思わず飲み込まれてしまいそうな清冽な雰囲気を持っている。ふたりに共通する、皇一族が持つ神がかり的な美しさも相まっているのだろう。
 そう結論付けた桜桃は首を軽く縦に振りながら、小環の言葉を耳元で受け止める。

「ま、皇子っていっても皇太子である大松兄上に比べればたいした威力もない。だから女学校に俺が女装して潜入するなんて莫迦げた作戦を父上は気安く口にして実行させたんだ。まったくもってたまったもんじゃない」
「女装似合うよ?」
「ぶっ」

 さらりと言ってのける桜桃に、思わず噴き出す湾。ぴくぴくこめかみをひきつらせながら小環は話を変える。

「学校内は古都律華も帝都清華も関係ない。だが、天神の娘を狙って潜入している人間がいないとは言えない。お前には申し訳ないが、俺と生活を共にしてもらうことになる」

 結婚前の男女がこうしてひとつの部屋で暮らすなどもってのほかだがな、と心底嫌そうな顔をしながら言う小環に、桜桃もうん、と頷き、はたと考える。

「皇一族の人間が傍にいてくれるのは心強いけど……湾さん、小環は信頼してもいいの?」
「いまさらそれを聞くか!」

 それより未婚の男女が同じ部屋で寝食を共にする方が問題だろうがと言いたそうな湾は、桜桃の言いたいことももっともだと思いなおし、そっと応える。

「とりあえず立ち話もなんだし、その辺のこと、情報交換しようぜ」

 俺も今日しかこの学校にいられねーからな、と淋しそうに口にする湾を中心に、左右で桜桃と小環は荷物のない場所へ座り込み、こくりと頷く。

「それじゃあまずは俺の方から。空我邸が襲撃された前後の動きを伝える」

 小声になった湾の言葉を、漏らさないようふたりは口を閉ざしたまま、耳を傾ける。
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