此華天女
* * *
伊妻の乱が起きて、伊妻一族は滅んだとされている。
だが、そのときの生き残りがいまになって動き出している。天神の娘の到来を待っていたかのように。否。
「天神の娘が来ることを、彼らは知っていた」
なぜなら、空我桜桃は襲われて北海大陸へ逃げて来たのだから。彼女を襲わせたのは川津実子とされているが、古都律華の川津家は神皇帝の正妃である水嶌家出身の冴利から天神の娘を殺すよう命じられたに違いない。そしてその冴利は伊妻に縁のある『雨』の部族の有力者、種光という男からその話を持ち込まれたと考えていいだろう。
川津家当主の蒔子は至高神の末裔など不要だと実子に委ね、実子は暗殺者を雇った。だが、暗殺者は実子の息子、柚葉に返り討ちにあった。実子もまた、その罪を被されるように消されてしまった。消したのは冴利の手のものだろう。蒔子もこれ以上の介入を良しとせず、手を引いている。もしかしたら手切れ金でも送られていたのかもしれない。こうして古都律華の川津家は天神の娘をめぐる争いから枠を外れた。北海大陸を拠点としている御三家の鬼造に任せることにしたのだろう。
そして舞台は天神の娘の始祖が暮らしていた北の土地、カイムに移る。そこで彼女は自分の存在意義が帝都の政争だけではないという事実を知らされ、そこに土地神の怒りを鎮めようと神嫁という名の生贄を提案した『雨』や、古都律華に属しながらも『雨』に従う鬼造、皇一族との繋がりを大切にし、天女の到来を祈って春を乞う『雪』、カイムの民を担う神職に就く逆斎の人間が関わっているという状況に巻き込まれてしまった……至高神の血を唯一受け継ぐというだけの少女に、周囲の人間は必死になっている。それはなぜか。
小環は暗闇を怖がる桜桃のちいさな手を握ったまま、そんなことを考える。美生蝶子が学校を去ったときに四季とふたりきりで会話をしてから、ずっと疑問に感じていたことだ。
「小環?」
「お前は、ほんとうに何のちからもないのか」
座敷牢は、校門から入ってすぐの学舎とその奥に繋がっている寮や浴場などの建物が混在している場所からずいぶんと離れた場所にあるらしい。消灯時刻を狙って外に出た小環と桜桃は、静まり返った敷地内の庭園を足音を立てずにボレロに白い襟巻マフラーを巻いた姿で進んでいく。残雪混じりの冷たい土は半分凍っており、皮張りの長靴ブーツの底がそこへ触れるたびにつるりと滑って、転んでしまいそうなほどだ。
いまの時期なら葉を青々とさせておかしくない庭園の樹木は、針葉樹をのぞいてほとんどが裸のままだ。これもこの土地に春が訪れていないからなのだろうか。
「ないよ。あったらとっくにこの土地に春を呼んで、とっととこんな状況から逃げ出しているわ」
桜桃は今更なにを言うのだと小環にそっけなく応える。彼女が隠しているそぶりはまったくもって窺い知れない。
「それで、ゆずにいのところに帰るの」
あの、穏やかで普遍的な閉ざされた洋館で、籠の中の小鳥のように静かに歌を囀って訪れる彼を癒してあげる。桜桃はそれだけで充分なのだとうたうように小環に告げる。
「柚葉、か」
桜桃が口にする異母兄の名を耳にするたびに小環は腹立たしい気持ちと淋しい気持ちがないまぜになってむかむかしてくる。傍に湾がいたらきっと嫉妬だと断言するであろうその得体の知れない感情を胸に、小環は桜桃の手を強く握りしめる。
「な、なに? 痛いんだけど」
「そんなに柚葉のもとに帰りたいのか」
「……できれば、だけど」
桜桃は弱々しく応え、切なそうな表情をしている小環の横顔を見上げる。どうして彼がそんな表情をしているのか、桜桃には理解できない。
「それは、叶わない夢だよ」
けれど、小環にそんな表情をさせたくなくて、桜桃は自分の諦観を正直に伝える。
この騒動が治まっても、自分は柚葉の傍に戻れない気がする。柚葉は帝都清華の人間で、自分が傍にいる限り、絶対に迷惑をかけてしまうから。桜桃の存在が公にされたいま、元いた場所へ戻るという選択肢は選べない。
「だから、そのときは小環が神皇帝のところに連れて行って構わないよ」
泣き笑いの表情で決意する桜桃を見て、小環の心は揺さぶられる。灰色がかった榛色の澄み切った瞳は空を覆う分厚い雲間からかすかに浮かぶ鋭い月のひかりに照らされ、神秘的なまでに煌めいている。
「……それでいいのか」
思わず、小環は口を出していた。ほんとうなら、桜桃のこの言葉は、自分にとって喜ばしい言葉のはずだ。なのになぜだろう。
ちっとも嬉しくない。
「うん、心配してくれてるの? 大丈夫だよ。あたしはもう、鳥籠の中で安穏と過ごしているだけの小鳥じゃないの。ゆずにいはお願いしたらずっと護ってくれると思うけど、彼の将来を壊してまで、あたしは傍にいたくない」
桜桃はそう噛みしめるように、言葉に力を込める。
「あたしは『天』の部族、カシケキクの末裔でカイムの巫女姫の娘。この歪んだ大陸を元通りにして、醜い争いに終止符を打たなくちゃいけない……小環は言ってたよね、あたしが天女だって。始祖神の末裔である小環となら、きっとできるよ」
春を呼ぼう。
桜桃の発した強い言葉のちからに、小環は眼を瞠らせる。何も知らずに逃げてばかりいた彼女が、自分を肯定して決意を漲らせている。いつの間に、成長したのだろう。まるで、花の蕾が綻ぶようで……
「小環?」
ふっ、と小環は笑みを零す。そうか、そういうことだったのか。探し求めていた天女伝説の鍵は、こんな近くにあったのか!
桜桃はなぜ笑われたのかわからず、首を傾げている。
「ああ。きっとできる! 時の花となる俺と春を呼ぶお前で、この潤蕊に、北海大陸に、春を呼ぼう」
――時の花を手に、此の世の栄華を咲かせ春を呼ぶ天女がやってくる。
その時の花が、天女の伴侶たる資格を持つ未婚の男性を意味した隠語であることに、小環はようやく気づいたのである。父皇に自分が「時の花の蕾」と言われたことをすっかり失念していた小環は、苦笑を浮かべる。
「寒河江雁に話を聞けば、詳しいことがわかるかもしれないな。彼女は『雪』だから、きっと天女伝説を信じているはずだ」
桜桃を天女ではないと思って猟銃を発したのか、それとも政治的な理由で桜桃を狙ったのか、口を閉ざしたままの雁の真意を聞きたくて、ふたりは座敷牢への足取りを急がせる。
そして、地下の座敷牢へ続く石でできた階段を発見する。その入口には。
「ようやく来たのね、天神の娘」
幻想的な橙色のひかりを浮かべる松明を片手に、長身の少女が、ふたりを待っていた。
伊妻の乱が起きて、伊妻一族は滅んだとされている。
だが、そのときの生き残りがいまになって動き出している。天神の娘の到来を待っていたかのように。否。
「天神の娘が来ることを、彼らは知っていた」
なぜなら、空我桜桃は襲われて北海大陸へ逃げて来たのだから。彼女を襲わせたのは川津実子とされているが、古都律華の川津家は神皇帝の正妃である水嶌家出身の冴利から天神の娘を殺すよう命じられたに違いない。そしてその冴利は伊妻に縁のある『雨』の部族の有力者、種光という男からその話を持ち込まれたと考えていいだろう。
川津家当主の蒔子は至高神の末裔など不要だと実子に委ね、実子は暗殺者を雇った。だが、暗殺者は実子の息子、柚葉に返り討ちにあった。実子もまた、その罪を被されるように消されてしまった。消したのは冴利の手のものだろう。蒔子もこれ以上の介入を良しとせず、手を引いている。もしかしたら手切れ金でも送られていたのかもしれない。こうして古都律華の川津家は天神の娘をめぐる争いから枠を外れた。北海大陸を拠点としている御三家の鬼造に任せることにしたのだろう。
そして舞台は天神の娘の始祖が暮らしていた北の土地、カイムに移る。そこで彼女は自分の存在意義が帝都の政争だけではないという事実を知らされ、そこに土地神の怒りを鎮めようと神嫁という名の生贄を提案した『雨』や、古都律華に属しながらも『雨』に従う鬼造、皇一族との繋がりを大切にし、天女の到来を祈って春を乞う『雪』、カイムの民を担う神職に就く逆斎の人間が関わっているという状況に巻き込まれてしまった……至高神の血を唯一受け継ぐというだけの少女に、周囲の人間は必死になっている。それはなぜか。
小環は暗闇を怖がる桜桃のちいさな手を握ったまま、そんなことを考える。美生蝶子が学校を去ったときに四季とふたりきりで会話をしてから、ずっと疑問に感じていたことだ。
「小環?」
「お前は、ほんとうに何のちからもないのか」
座敷牢は、校門から入ってすぐの学舎とその奥に繋がっている寮や浴場などの建物が混在している場所からずいぶんと離れた場所にあるらしい。消灯時刻を狙って外に出た小環と桜桃は、静まり返った敷地内の庭園を足音を立てずにボレロに白い襟巻マフラーを巻いた姿で進んでいく。残雪混じりの冷たい土は半分凍っており、皮張りの長靴ブーツの底がそこへ触れるたびにつるりと滑って、転んでしまいそうなほどだ。
いまの時期なら葉を青々とさせておかしくない庭園の樹木は、針葉樹をのぞいてほとんどが裸のままだ。これもこの土地に春が訪れていないからなのだろうか。
「ないよ。あったらとっくにこの土地に春を呼んで、とっととこんな状況から逃げ出しているわ」
桜桃は今更なにを言うのだと小環にそっけなく応える。彼女が隠しているそぶりはまったくもって窺い知れない。
「それで、ゆずにいのところに帰るの」
あの、穏やかで普遍的な閉ざされた洋館で、籠の中の小鳥のように静かに歌を囀って訪れる彼を癒してあげる。桜桃はそれだけで充分なのだとうたうように小環に告げる。
「柚葉、か」
桜桃が口にする異母兄の名を耳にするたびに小環は腹立たしい気持ちと淋しい気持ちがないまぜになってむかむかしてくる。傍に湾がいたらきっと嫉妬だと断言するであろうその得体の知れない感情を胸に、小環は桜桃の手を強く握りしめる。
「な、なに? 痛いんだけど」
「そんなに柚葉のもとに帰りたいのか」
「……できれば、だけど」
桜桃は弱々しく応え、切なそうな表情をしている小環の横顔を見上げる。どうして彼がそんな表情をしているのか、桜桃には理解できない。
「それは、叶わない夢だよ」
けれど、小環にそんな表情をさせたくなくて、桜桃は自分の諦観を正直に伝える。
この騒動が治まっても、自分は柚葉の傍に戻れない気がする。柚葉は帝都清華の人間で、自分が傍にいる限り、絶対に迷惑をかけてしまうから。桜桃の存在が公にされたいま、元いた場所へ戻るという選択肢は選べない。
「だから、そのときは小環が神皇帝のところに連れて行って構わないよ」
泣き笑いの表情で決意する桜桃を見て、小環の心は揺さぶられる。灰色がかった榛色の澄み切った瞳は空を覆う分厚い雲間からかすかに浮かぶ鋭い月のひかりに照らされ、神秘的なまでに煌めいている。
「……それでいいのか」
思わず、小環は口を出していた。ほんとうなら、桜桃のこの言葉は、自分にとって喜ばしい言葉のはずだ。なのになぜだろう。
ちっとも嬉しくない。
「うん、心配してくれてるの? 大丈夫だよ。あたしはもう、鳥籠の中で安穏と過ごしているだけの小鳥じゃないの。ゆずにいはお願いしたらずっと護ってくれると思うけど、彼の将来を壊してまで、あたしは傍にいたくない」
桜桃はそう噛みしめるように、言葉に力を込める。
「あたしは『天』の部族、カシケキクの末裔でカイムの巫女姫の娘。この歪んだ大陸を元通りにして、醜い争いに終止符を打たなくちゃいけない……小環は言ってたよね、あたしが天女だって。始祖神の末裔である小環となら、きっとできるよ」
春を呼ぼう。
桜桃の発した強い言葉のちからに、小環は眼を瞠らせる。何も知らずに逃げてばかりいた彼女が、自分を肯定して決意を漲らせている。いつの間に、成長したのだろう。まるで、花の蕾が綻ぶようで……
「小環?」
ふっ、と小環は笑みを零す。そうか、そういうことだったのか。探し求めていた天女伝説の鍵は、こんな近くにあったのか!
桜桃はなぜ笑われたのかわからず、首を傾げている。
「ああ。きっとできる! 時の花となる俺と春を呼ぶお前で、この潤蕊に、北海大陸に、春を呼ぼう」
――時の花を手に、此の世の栄華を咲かせ春を呼ぶ天女がやってくる。
その時の花が、天女の伴侶たる資格を持つ未婚の男性を意味した隠語であることに、小環はようやく気づいたのである。父皇に自分が「時の花の蕾」と言われたことをすっかり失念していた小環は、苦笑を浮かべる。
「寒河江雁に話を聞けば、詳しいことがわかるかもしれないな。彼女は『雪』だから、きっと天女伝説を信じているはずだ」
桜桃を天女ではないと思って猟銃を発したのか、それとも政治的な理由で桜桃を狙ったのか、口を閉ざしたままの雁の真意を聞きたくて、ふたりは座敷牢への足取りを急がせる。
そして、地下の座敷牢へ続く石でできた階段を発見する。その入口には。
「ようやく来たのね、天神の娘」
幻想的な橙色のひかりを浮かべる松明を片手に、長身の少女が、ふたりを待っていた。