此華天女
第六章 天女、求婚
暮春。暦の上では間もなく初夏に入ろうとしているというのに、北海大陸には未だ寒気が横たわり春の訪れを阻んでいるときく。『雪』から嘆願を受けた神皇帝の息子である大松皇子は、彼らと交渉をつづけている向清棲伯爵こと幹仁と弟を己の住まいである紅薔薇宮(くれないそうびのみや)での晩餐会に招待し、その後内密に応接間に呼び出し、にこやかに決定事項を口にした。
「向清棲幹仁、ならびに朝仁(ともひと)、そなたらを北海大陸に送りたい」
紅薔薇と名がつくとおり、皇太子のために造られたこの離宮は赤みがかった火山石と薄紅色の珊瑚がふんだんに使われ、見る者を圧倒させている。神皇の玉座がある黄金色の明時宮や現正妃が暮らすために準備された伽羅色の煉瓦造りの入陽宮と比べても、見劣りはしない豪奢な造りだ。
その建物の主は皇一族の長である名治の最初の正妃、蛍子が最初に産んだ皇子、大松。年齢は幹仁と同じくらいだが、背丈は低く、透き通った肌の色は病弱ゆえに青白く、どこか弱々しく儚い雰囲気を抱かせる。 だが、彼の瞳はそれを裏切るように輝き、その場にいる人間を虜にさせる。
彼が次の帝になるのだろう。帝都清華は病弱だが賢王の素質を持つ大松の支持にまわり、協力体制を築いている。彼の言葉に従うのも当然である。
帝都清華と古都律華の天神の娘をめぐる攻防について、新たな情報でも入ったのだろうか。蝋燭に照らし出された香りのきつい大輪の暗褐色の紅薔薇が活けられた花瓶が飾られている応接卓を挟んで、幹仁は目の前で絶えず微笑みを浮かべる皇太子殿下を見返し、苦笑する。
「それはまた、突然のご命令ですね。理由をお聞かせ願えますか?」
「湾義兄上に届いた手紙によると、黒多子爵令嬢が負傷したそうだ。婚約者が見舞いに行くのは当然のことではないか?」
「……桂也乃が?」
さっと顔色を青くしたのは幹仁の末の弟で黒多桂也乃と許嫁の関係にある十六歳の朝仁である。幹仁は自分だけでなくまだ学生の身分である弟を連れて来るよう命じられた理由を悟り、大松の黒水晶のような瞳を見据える。
「どうやら、『雪』の生徒に猟銃で撃たれたらしい。彼女は天神の娘を庇ったのだよ」
「なんでまた……」
詰襟姿の朝仁はさっきから動揺しっぱなしである。大松皇子との会談を前に緊張していた時よりも、婚約者が猟銃に撃たれたという話を耳にした今の方が衝撃が大きいのか、腰を降ろしていた応接椅子で貧乏ゆすりをはじめている。次期神皇の前ではしたないと思いながらも、幹仁もごくりと唾を鳴らしていた。
天神の娘とはつまり、自分の元婚約者であった空我桜桃のこと。
彼女を手に入れるために婚約を白紙するよう懇願してきた青年を思い出す。空我侯爵の跡取り息子である柚葉は、彼女が生命の危機に晒されていることを知っているのだろうか。
「天神の娘の元婚約者である伯爵どのにも、興味深い話だと思うのだが」
「たしかに、面白そうですが……」
空我侯爵の愛妾の娘と幹仁に面識はない。婚約解消した今、顔を合わせて何になる?
幹仁の葛藤する様を大松は瞬きすることなく見つめている。そんなふたりをよそに朝仁だけは狼狽をつづけていたが、やがて勇気を出して大松に声をかける。
「――皇太子殿下、小生だけが大陸を渡ることは可能でしょうか?」
「朝仁?」
「げんざい兄上は帝都清華の頂点である空我侯爵不在の穴を柚葉どのと埋めるので手一杯なのは殿下も御存知の筈。だというのに北海大陸へ兄上を遣るというのは職務を放棄しろというのと同じ。兄上だけでなく小生も帝都で『雪』との商談に応じた経験があります。婚約者を見舞い、状況を確認する人間はひとりで問題ないと思いますが?」
意志の籠った視線が、大松を射抜く。婚約者の安否が気になる朝仁の強気の発言に、大松は大仰に頷く。
「そうか。それもそうだな。では、向清棲朝仁に命ずる。我が義兄上を伴い、北海大陸に入り、そなたの婚約者である黒多桂也乃嬢を迎えにゆくのだ」
見舞いではなく迎えに行けと、大松は命令した。それはつまり。
「神嫁御渡……」
幹仁の呟きに、大松は知っておったかと軽く頷く。『雪』の部族で花嫁修業と際して鬼造が創設した冠理女学校へ入学した少女が、卒業するために呪術で表情を殺して迎えに来た花婿とともに逃げるように去ったという話を人伝に聞いたのを思い出し、身震いする。
女学校を去る際に乙女は神に供物を渡さなくてはならないのだという。感謝の意を込めた捧げものの習慣は、人間が古の掟を捻じ曲げたため呪いとなってしまったときく。血の味を覚えた神の花嫁として身体の一部を差し出したり、花婿のあてがない乙女は人柱にされてしまうなどという噂もあるが、真実は未だわからず大松は訝しがっている。神の怒りか人間の作為か、果てはその両方か……
「黒多子爵にも食事のときにその旨は伝えておる。時期が早まってしまったのは仕方がないが、このままだと彼女、邪神に食われるぞ」
「邪神?」
大松は神妙な顔で伯爵兄弟に告げる。
「さよう。我らが皇一族に反旗を揚げ、国を混沌に陥れた禁忌の一族の生き残り。そこまで聞けば、そなたらも誰のことかわかるであろう?」
幹仁と朝仁が目くばせをして頷き合う。
「……北海大陸に、生き残り」
「それも、冠理女学校に」
伊妻の反乱が起きた頃、幹仁は七歳になったばかりだった。末の弟である朝仁は生まれておらず、父である伯爵は空我侯爵家当主となったばかりの樹太朗とともに戦地に赴いていた。彼らは名治神皇の命のもと、伊妻一族を追い詰め、処刑という名の殺戮を行った。乱後、父はあの災害が起きたのは『雨』の恨みだと言い訳のように口にしていたが……
「まさか、『雨』のなかに?」
幹仁の言葉を待っていたかのように、部屋中に拍手が響き渡る。大松が開いた扉の向こうに立つ女性を招くと、彼女は挨拶もなしに大松の隣へ腰掛け、伯爵兄弟を睨みつける。
「向清棲幹仁、ならびに朝仁(ともひと)、そなたらを北海大陸に送りたい」
紅薔薇と名がつくとおり、皇太子のために造られたこの離宮は赤みがかった火山石と薄紅色の珊瑚がふんだんに使われ、見る者を圧倒させている。神皇の玉座がある黄金色の明時宮や現正妃が暮らすために準備された伽羅色の煉瓦造りの入陽宮と比べても、見劣りはしない豪奢な造りだ。
その建物の主は皇一族の長である名治の最初の正妃、蛍子が最初に産んだ皇子、大松。年齢は幹仁と同じくらいだが、背丈は低く、透き通った肌の色は病弱ゆえに青白く、どこか弱々しく儚い雰囲気を抱かせる。 だが、彼の瞳はそれを裏切るように輝き、その場にいる人間を虜にさせる。
彼が次の帝になるのだろう。帝都清華は病弱だが賢王の素質を持つ大松の支持にまわり、協力体制を築いている。彼の言葉に従うのも当然である。
帝都清華と古都律華の天神の娘をめぐる攻防について、新たな情報でも入ったのだろうか。蝋燭に照らし出された香りのきつい大輪の暗褐色の紅薔薇が活けられた花瓶が飾られている応接卓を挟んで、幹仁は目の前で絶えず微笑みを浮かべる皇太子殿下を見返し、苦笑する。
「それはまた、突然のご命令ですね。理由をお聞かせ願えますか?」
「湾義兄上に届いた手紙によると、黒多子爵令嬢が負傷したそうだ。婚約者が見舞いに行くのは当然のことではないか?」
「……桂也乃が?」
さっと顔色を青くしたのは幹仁の末の弟で黒多桂也乃と許嫁の関係にある十六歳の朝仁である。幹仁は自分だけでなくまだ学生の身分である弟を連れて来るよう命じられた理由を悟り、大松の黒水晶のような瞳を見据える。
「どうやら、『雪』の生徒に猟銃で撃たれたらしい。彼女は天神の娘を庇ったのだよ」
「なんでまた……」
詰襟姿の朝仁はさっきから動揺しっぱなしである。大松皇子との会談を前に緊張していた時よりも、婚約者が猟銃に撃たれたという話を耳にした今の方が衝撃が大きいのか、腰を降ろしていた応接椅子で貧乏ゆすりをはじめている。次期神皇の前ではしたないと思いながらも、幹仁もごくりと唾を鳴らしていた。
天神の娘とはつまり、自分の元婚約者であった空我桜桃のこと。
彼女を手に入れるために婚約を白紙するよう懇願してきた青年を思い出す。空我侯爵の跡取り息子である柚葉は、彼女が生命の危機に晒されていることを知っているのだろうか。
「天神の娘の元婚約者である伯爵どのにも、興味深い話だと思うのだが」
「たしかに、面白そうですが……」
空我侯爵の愛妾の娘と幹仁に面識はない。婚約解消した今、顔を合わせて何になる?
幹仁の葛藤する様を大松は瞬きすることなく見つめている。そんなふたりをよそに朝仁だけは狼狽をつづけていたが、やがて勇気を出して大松に声をかける。
「――皇太子殿下、小生だけが大陸を渡ることは可能でしょうか?」
「朝仁?」
「げんざい兄上は帝都清華の頂点である空我侯爵不在の穴を柚葉どのと埋めるので手一杯なのは殿下も御存知の筈。だというのに北海大陸へ兄上を遣るというのは職務を放棄しろというのと同じ。兄上だけでなく小生も帝都で『雪』との商談に応じた経験があります。婚約者を見舞い、状況を確認する人間はひとりで問題ないと思いますが?」
意志の籠った視線が、大松を射抜く。婚約者の安否が気になる朝仁の強気の発言に、大松は大仰に頷く。
「そうか。それもそうだな。では、向清棲朝仁に命ずる。我が義兄上を伴い、北海大陸に入り、そなたの婚約者である黒多桂也乃嬢を迎えにゆくのだ」
見舞いではなく迎えに行けと、大松は命令した。それはつまり。
「神嫁御渡……」
幹仁の呟きに、大松は知っておったかと軽く頷く。『雪』の部族で花嫁修業と際して鬼造が創設した冠理女学校へ入学した少女が、卒業するために呪術で表情を殺して迎えに来た花婿とともに逃げるように去ったという話を人伝に聞いたのを思い出し、身震いする。
女学校を去る際に乙女は神に供物を渡さなくてはならないのだという。感謝の意を込めた捧げものの習慣は、人間が古の掟を捻じ曲げたため呪いとなってしまったときく。血の味を覚えた神の花嫁として身体の一部を差し出したり、花婿のあてがない乙女は人柱にされてしまうなどという噂もあるが、真実は未だわからず大松は訝しがっている。神の怒りか人間の作為か、果てはその両方か……
「黒多子爵にも食事のときにその旨は伝えておる。時期が早まってしまったのは仕方がないが、このままだと彼女、邪神に食われるぞ」
「邪神?」
大松は神妙な顔で伯爵兄弟に告げる。
「さよう。我らが皇一族に反旗を揚げ、国を混沌に陥れた禁忌の一族の生き残り。そこまで聞けば、そなたらも誰のことかわかるであろう?」
幹仁と朝仁が目くばせをして頷き合う。
「……北海大陸に、生き残り」
「それも、冠理女学校に」
伊妻の反乱が起きた頃、幹仁は七歳になったばかりだった。末の弟である朝仁は生まれておらず、父である伯爵は空我侯爵家当主となったばかりの樹太朗とともに戦地に赴いていた。彼らは名治神皇の命のもと、伊妻一族を追い詰め、処刑という名の殺戮を行った。乱後、父はあの災害が起きたのは『雨』の恨みだと言い訳のように口にしていたが……
「まさか、『雨』のなかに?」
幹仁の言葉を待っていたかのように、部屋中に拍手が響き渡る。大松が開いた扉の向こうに立つ女性を招くと、彼女は挨拶もなしに大松の隣へ腰掛け、伯爵兄弟を睨みつける。