此華天女
   * * *


 三七十(みなと)区司馬浦港、二十一時。
 見送るものの姿もない、貨物のための富若内行き最終便がゆっくりと動き出す。街燈が揺らめく水面を感慨深そうに見つめながら、最低限の灯りしか設置されていない薄暗い甲板の上で柚葉は隣に立つ男の声に耳を傾ける。
 異母妹を暗殺しようとし、柚葉の母実子に手をかけた黒幕は名治神皇の正妃である冴利だったという。どうりで、川津家の動きが鈍るわけだ。

「そなたの母君には申し訳ないことをした。だが、后妃は天神の娘を執拗に狙っている。川津当主が手を引いたからといってあっさり諦めることはないだろう」
「そうですね」

 きっぱりと言い切る柚葉に、男はすまなそうに身体を縮める。

「こちらの不手際だ」
「……皇一族の動きが活発だとのはなしはうかがっていましたが、まさかこういった形で火の粉がかかるとは思いませんでしたよ」

 凪いだ海の波音は静かで、小声の柚葉とぼそぼそと喋る男の言葉は問題なく伝わっていく。

「水嶌の女は扱いづらいんだ」
「古都律華の人間を利用できるだけ利用したあなたの言葉とは思えませんね」
「柚葉どのも」
「僕はいいんです。でも、帝都のごたごたに巻き込まれるような形で『雨』である種光さんがこんなことをする必要はなかったはず。何が、あなたをここまで動かしているのですか?」

 深い夜の闇に、ふたりの男の影が飲み込まれていく。規則的に寄せては返す波しぶきが船体へぶつかる音が、夜の黒に沈んだ船内を震わせている。
 ふいに、種光が零す。

「――娘が、いるんだ」

 柚葉が異母妹を大切にするように、大事にしている娘が、種光にもいる。
 けれど、その娘は、両親をはじめとした血族の復讐の焔に燃えている。
 彼女の無念を晴らすため、カイムの地を蹂躙するようなかたちで国土とした皇一族に一矢報うため、『雨』の部族を統括し、潤蕊一帯を買い占めた鬼造一族よりも強い支配をつづけている梧家が動きだしたのだ。

「慈しみの雨、って書いて慈雨っていう、伊妻が『雨』に遺した、忘れ形見さ」

 伊妻霜一の遺した娘を養女にした男、梧種光は、彼女のためだけに、動いている。
 それは、桜桃を自分だけのものにするために動いている自分に通じるものがあると、柚葉は共感を覚える。同時に、危うく感じることも、ある。

「裏で糸を操っていたのは、彼女なのですね」

 柚葉は黙り込む種光に、そっけなく言葉を紡ぐ。

「天神の娘を利用すると、そのためにあなたを后妃のもとへ寄こしたのは」

 からまっていた糸が、少しずつ解れてきた。柚葉はあたまのなかで縺れた糸の行方を辿り、種光の発言に照らし合わせていく。

「……まあいいでしょう。伊妻の生き残りが皇一族を討つ気なら、ね」

 すくなくとも、伊妻の残党である『雨』は皇一族を信奉する古都律華のように天神の娘を廃そうとしているわけではないのだから。

「『雷(イメラッ)』の王の尊大なご配慮、ありがたい」
「勘違いだけはしないでほしい。皇一族を討ったとしても、天神の娘は僕のものだ。玉座など伊妻の忘れ形見にくれてやるし、政も『雨』の連中で好きにすればよい。だが、兄妹でも正式に結婚できるよう法律を整えることだけは頼みたい」
「重々承知致しております」

 深々と礼をして去っていく種光の背を見送り、柚葉が嗤う。

「……どこまで信じるべきかね」

 向清棲伯爵と桜桃の結婚が公に出る前に、柚葉は天神の娘を利用して国を乗っ取ろうという伊妻の残党を利用しようと接触した。実子が雇った暗殺者に乱暴される寸前に助け出して桜桃を北海大陸へ逃がすことはできたものの、そのことを不服に思った冴利が独断で実子を殺してしまったり、種光の統治下にある安全と思われた女学校内でもなぜか『雪』の生徒に猟銃を発砲されて桜桃を見守っていた梅子の義妹が負傷したりとなかなか計画どおりには進んでいない。それが柚葉には不満だった。
 柚葉は墨色の水面を覗き込みながら、北の大地に暮らす愛する異母妹の姿を思い浮かべる。

「ゆすら、きみを天女になんか、させるものか」

 北海大陸には天女の羽衣たる時の花がいるという。
 そんなもの、奪いとってやる。
 愛する異母妹は何のちからもない脆弱な少女でなければいけないのだ。

「僕が護ってあげる。古都律華からも、帝都清華からも、伊妻の残党からも……皇一族からも……」

 誰も彼も彼女が天神の娘だから追い求めるのだ。彼女の人格は否定されたままだ。そんな奴らに彼女は渡せない。
 此の世界に栄華の春など不要。自分にはただの桜桃がいればそれでいい。

「もうすぐ」

 すべてを投げうって、柚葉は勝負に出る。

「迎えに行くよ、僕の花嫁」

 この気持ちを止めることは、誰にも許されない。たとえそれが、神であっても。
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