此華天女
「ええ。古都律華が崇める真実の神、そして皇一族に脈々と連なる血族たる神。国造りの神とも呼ばれる始祖神は、海より生まれた母神とその土地に暮らしていた男の息子であることを、あなたもご存知ですよね」
「ああ」
蝶子の言葉は水が流れ落ちるかのようにゆるやかに幹仁の内耳をくすぐっていく。
「彼はその土地を治めたことで始祖神と呼ばれました。ですが、そのときの彼はまだ、半神にすぎません。彼は国を造り、民を生み出したものの、存続させるだけのちからがありませんでした。そこで彼は、自分が治める土地を訪問してくる数多の神々に協力を仰ぎました。海の母神をはじめ、農耕の神、産土の神、河川の神、動物の神……ときには戦神や死神まで」
戦神や死神、と口にしてから、蝶子は深呼吸する。
「そうして、この土地に暮らす民は循環の輪に入りました。始祖神もまた、民と混じり生活を楽しみ、人間の女との子を残しました」
それが、皇一族のはじまりとされている。
幹仁は頷き、はなしのつづきを促す。
「ですが、彼が愛した人間の女が死んでしまい、彼は国を治めるやる気を失ってしまったのです。そんなとき、救いの手を差し出したのが、北国から舞い降りてきた天空の姫神でした。あなたたちが至高神と呼ぶのは、その天女のことです」
「……天神の娘、か」
地を治めていた始祖神の危機を救ったのは天を治めていた至高神だった。愛するひとを失い地を治める意欲を失っていた彼のために、彼女は自分が持つちからを分け与え、完全な神としての能力を覚醒させたのである。
「こうして、皇一族の祖先である彼は始祖神として名を残し、国造りの神として、いまなお崇められているのです」
半神から完全なる神になったことで、彼はひとびとと深く関わることをやめ、いまでは姿を隠してこの国を見守っているという。
蝶子は夫となった人間が仕える始祖神から、至高神が与えてくれた逆さ斎のちからを分け与えられたのだと伝え、口を閉ざす。
なぜ天女が半神たる神に自分のちからを分け与えたのか。それは、天女もまた人間の男を愛し、子を成したからなのだろう。それが北海大陸に根づいている天女伝説の正体なのだと、幹仁は悟る。
「……だから帝はきみを傍に置いていたのか」
神皇帝が暮らす明時宮内には神官たちが集う神殿が組み込まれている。蝶子の夫がそこで始祖神との対話に勤しみ、彼女がその言葉を帝へと届けるという役割を担っていたと知り、幹仁は感慨深そうに声をあげる。
「まさか今になって天神の娘をめぐって国が乱れるとは思ってもいなかったでしょうね」
「ええ。始祖神に抗い武装蜂起した忌まわしき一族に生き残りの邪神がいたことで、運命が書き換えられてしまったようです」
きっぱりと言い切る蝶子に、幹仁が目を瞠らせると、当然のことだと早口になる。
伊妻の乱後の豪雨は『雨』のちからを色濃く継いだ生き残りが起こしたもので、その呪詛がいまも季節の訪れを阻む障害としてカイムの民を苛んでいるのだから、邪悪な神のようなものだ、と。
「しかも、古都律華はその邪神に唆され、天神の娘を廃そうとしました。帝都清華は天神の娘を利用し、始祖神の末裔との取引に使おうとしました。『天』の傍流である逆さ斎の民は天女の再来を信じる『雪』の民とともにカイムの地を苛む現象を解決してもらおうと神皇のもとへ歎願しました。始祖神の末裔は天神の娘を自分たちのもとへ引きいれ、ともに天と地を治めたいと考えています。ですが邪神も天神の娘という器だけを手に入れて始祖神が治めるこの国を乗っ取ろうと天女を見限った『雨』とともに動き出しています」
「……それで皇太子殿下は急いでいる、というわけだね」
邪神に食われる、というのは比喩なのだろうが、天神の娘を庇ったことで弟の婚約者が生命の危機に瀕しているというのは事実に違いない。明日の朝一の船で朝仁を向かわせるのが賢明だろう。
「たぶん、向こうでも動きがあるはずです」
蝶子はもどかしそうに声を出し、幹仁へ告げる。
「湾さまが同行されるので、危ないことはないかと思いますが……潤蕊に着いたら、本家の逆さ斎を頼るよう、お伝えください」
「それは構わないが、誰に伝えればいいのかい?」
「天神の娘と行動を共にしている逆井四季という名の、少年です」
「ああ」
蝶子の言葉は水が流れ落ちるかのようにゆるやかに幹仁の内耳をくすぐっていく。
「彼はその土地を治めたことで始祖神と呼ばれました。ですが、そのときの彼はまだ、半神にすぎません。彼は国を造り、民を生み出したものの、存続させるだけのちからがありませんでした。そこで彼は、自分が治める土地を訪問してくる数多の神々に協力を仰ぎました。海の母神をはじめ、農耕の神、産土の神、河川の神、動物の神……ときには戦神や死神まで」
戦神や死神、と口にしてから、蝶子は深呼吸する。
「そうして、この土地に暮らす民は循環の輪に入りました。始祖神もまた、民と混じり生活を楽しみ、人間の女との子を残しました」
それが、皇一族のはじまりとされている。
幹仁は頷き、はなしのつづきを促す。
「ですが、彼が愛した人間の女が死んでしまい、彼は国を治めるやる気を失ってしまったのです。そんなとき、救いの手を差し出したのが、北国から舞い降りてきた天空の姫神でした。あなたたちが至高神と呼ぶのは、その天女のことです」
「……天神の娘、か」
地を治めていた始祖神の危機を救ったのは天を治めていた至高神だった。愛するひとを失い地を治める意欲を失っていた彼のために、彼女は自分が持つちからを分け与え、完全な神としての能力を覚醒させたのである。
「こうして、皇一族の祖先である彼は始祖神として名を残し、国造りの神として、いまなお崇められているのです」
半神から完全なる神になったことで、彼はひとびとと深く関わることをやめ、いまでは姿を隠してこの国を見守っているという。
蝶子は夫となった人間が仕える始祖神から、至高神が与えてくれた逆さ斎のちからを分け与えられたのだと伝え、口を閉ざす。
なぜ天女が半神たる神に自分のちからを分け与えたのか。それは、天女もまた人間の男を愛し、子を成したからなのだろう。それが北海大陸に根づいている天女伝説の正体なのだと、幹仁は悟る。
「……だから帝はきみを傍に置いていたのか」
神皇帝が暮らす明時宮内には神官たちが集う神殿が組み込まれている。蝶子の夫がそこで始祖神との対話に勤しみ、彼女がその言葉を帝へと届けるという役割を担っていたと知り、幹仁は感慨深そうに声をあげる。
「まさか今になって天神の娘をめぐって国が乱れるとは思ってもいなかったでしょうね」
「ええ。始祖神に抗い武装蜂起した忌まわしき一族に生き残りの邪神がいたことで、運命が書き換えられてしまったようです」
きっぱりと言い切る蝶子に、幹仁が目を瞠らせると、当然のことだと早口になる。
伊妻の乱後の豪雨は『雨』のちからを色濃く継いだ生き残りが起こしたもので、その呪詛がいまも季節の訪れを阻む障害としてカイムの民を苛んでいるのだから、邪悪な神のようなものだ、と。
「しかも、古都律華はその邪神に唆され、天神の娘を廃そうとしました。帝都清華は天神の娘を利用し、始祖神の末裔との取引に使おうとしました。『天』の傍流である逆さ斎の民は天女の再来を信じる『雪』の民とともにカイムの地を苛む現象を解決してもらおうと神皇のもとへ歎願しました。始祖神の末裔は天神の娘を自分たちのもとへ引きいれ、ともに天と地を治めたいと考えています。ですが邪神も天神の娘という器だけを手に入れて始祖神が治めるこの国を乗っ取ろうと天女を見限った『雨』とともに動き出しています」
「……それで皇太子殿下は急いでいる、というわけだね」
邪神に食われる、というのは比喩なのだろうが、天神の娘を庇ったことで弟の婚約者が生命の危機に瀕しているというのは事実に違いない。明日の朝一の船で朝仁を向かわせるのが賢明だろう。
「たぶん、向こうでも動きがあるはずです」
蝶子はもどかしそうに声を出し、幹仁へ告げる。
「湾さまが同行されるので、危ないことはないかと思いますが……潤蕊に着いたら、本家の逆さ斎を頼るよう、お伝えください」
「それは構わないが、誰に伝えればいいのかい?」
「天神の娘と行動を共にしている逆井四季という名の、少年です」