此華天女
   * * *


 湾は焦っていた。柚葉がひとりで勝手に北海大陸へ渡ってしまった。桜桃を迎えに。

「いや、取り戻しに、って言った方がいいのか……?」
「川津どの?」

 考えに耽っていた湾に、おそるおそる声がかかる。ともに船で北海大陸へ渡る向清棲伯爵の弟、朝仁である。彼がそこにいることを半ば忘れていた湾は頭をかきながら彼の方に顔を向ける。

「失礼。それで、伯爵は帝都に残るんだな」
「はい。小生が川津どのとともに冠理女学校へ向かうとのことで皇太子殿下からも了解を得ております」
「皇太子殿下ねぇ……」

 あの異母弟は湾にもほんとうのことを口にしないでいたのだ。大松が次代の神皇帝だと信じ込んでいただけに、驚きは大きい。たぶん、小環もほんとうのことを知らされていないのだろう。だから彼は単身で女装してまで北海大陸に潜入し、天神の娘である桜桃を保護する役割を受け入れたのだろうから。
 父皇が最初から大松だけに話を通していたに違いない。そして、それ以外の人間には今日まで告げていなかった……小環や湾、后妃である冴利にまで。

「小生はそこで桂也乃を迎えにあがる所存であります」

 朝仁は湾の小難しそうな表情を気にしながらも、自分の意志だけはしっかりと口にする。湾はその素直な少年の言葉に、深く頷く。

「桂也乃嬢のことはそちらに任せる。先に言っておくが、俺はすることがたくさんあるから、お前さんのことまで手がまわらないと思うぞ」
「存じております。『雨』の部族の長である梧種光とその養女で伊妻霜一の娘である慈雨を摘発されるのですよね」

 あんがい怖いもの知らずなのか、朝仁は伊妻の名をすんなりと口にする。兄の幹仁が傍にいたら紛れもなく拳骨をして窘めるだろう。
 だが、言葉を濁すのは湾もすきではない。

「そうだ。それに、殿下とともにいる天神の娘の安否と、その異母兄のこともある」
「柚葉どのが川津本家から姿を消した際、使用人が不審な人物を目撃されたとの話ですね。梅子どのがさきほどおっしゃっていた……」
「梧種光」

 色恋には程遠い政治や商売や利権ばかりの堅苦しい会話についていけなくて湾は朝仁とともに別室に引っ込んだのだが向清棲伯爵と梅子はいまも応接室で語り合っていることだろう。似た者同士、あれこれ策略を巡らせているのかもしれない。

「そうです。『雨』の長で潤蕊の支配者である梧種光。彼が柚葉どのに接触し、ともに北海大陸へ渡ったのでは……」
「違う」

 押し殺した声で、湾はきっぱりと告げる。

「逆なんだ。坊は、嬢ちゃんを手に入れることしか考えていない。空我侯爵家のことを放棄してでも、彼は彼女を選ぶ。彼女を狙った暴漢を躊躇いなく殺したように。彼は、皇一族に彼女を奪われるのならば、いっそ伊妻に国を奪わせて、天神の娘とか天女とか関係なく、彼女を自分だけのものにする……」

 柚葉が古都律華の鬼造が校長を務める冠理女学校へ桜桃を遣ると湾へ伝えたときに、気づいていればよかった。女学校の理事長が『雨』の部族の長である梧種光で、まさか彼の養女が伊妻の生き残りだとは、考えが及ばなかったのだから。

「彼は最初から、天女伝説を利用して、彼女を自分だけのものにしようと考えていた。それが、きみの兄上や梅子どのが下した結論だ」
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