此華天女
 伊妻の乱は発端にすぎない。だが、そこに柚葉は目を付けた。帝都清華と古都律華も、伊妻の残党も、ぜんぶ利用して、彼は立ち回りを演じたのだ。天神の娘であるがゆえに皇一族やほかの華族から注目された異母妹を、ほかのなにものでもない唯一の少女として愛するがために。次期侯爵という自分に定められた輝かしい将来を捨て、国を脅かしてまで。

「……妹を自分のものにするためだけに?」

 信じられないと、朝仁の声が震えている。

「そうだ」

 柚葉はそれでも、桜桃を選ぶ。
 すべてを切り捨てても。

 それならば、湾もまた、父皇に課せられた使命を、やり遂げなければならない。

「俺たちが船に乗っている頃には、彼らはもう、北海大陸に上陸していることだろう。差を縮めるために商船を使うが、楽観はできない」

 そのあいだにも、桜桃たちに危険が迫っているのだ。桜桃本人に危害が及ぶ可能性は低いが、彼女の傍には小環がいる。それに、桂也乃も皇一族の親族にあたる。伊妻の残党の狙いが皇一族なら……

「桂也乃も、それはわかっていると思います」

 朝仁がぽつり、と零す。

「けれど、彼女は好奇心旺盛ゆえにときどき無茶をするから……」

 大松皇子に依頼された天神の娘の監視も、快く受け入れたのだ。ふつうの華族令嬢なら辞退しているところを、彼女はあっさり受け入れて、はりきって任務を遂行するのだ。
 そんな桂也乃を朝仁は放っておけないのだ。結婚してからもきっと、彼女に振り回されてしまうのが目に見えている。それでも蝶のように軽やかに動く彼女となら、楽しい人生を送れるだろうと、朝仁は期待しているのだ。

「――心配なんです」

 彼女の同室は皇一族の神官である覗見家に縁ある人間だというが、邪神と呼ばれるまでに恐れられる伊妻の忌まわしき残党を前に、ひとりで戦うのは難しいだろう。天女でも現れない限り。

「天女か……」

 湾は桜桃と小環が顔を合わせた時の状況を思い出し、苦笑する。至高神の末裔たる天神の娘と始祖神の末裔である次期神皇。父皇はふたりを娶せようとしていたのだ。天女伝説を此の世に蘇らせるため。そしてその目的は伊妻の残党も同じ。

「Shineanto ta shirpirka kusu……」

 思わず冒頭部分を口にしていた。湾の歌声に、朝仁が興味深そうに瞳を輝かせる。

「それは?」
「カイムの古い神謡さ。よく、坊にうたってあげたんだが……それが仇になるとはね」

 ――時の花を手にした天女は此の世に栄華たる常春を齎す。

 天神の娘を手に入れ、孕ませるのが、いちばん手っ取り早い。小環はそのことを父皇に知らされているはずだ。そして柚葉もまた、その真意に気づいたに違いない。天女が持つ時の花。それは天女とともにその時を共にする伴侶を意味する隠語だから。
 彼はすべてを敵に回してまで動き出した。傍に、桜桃と恋仲に陥るであろう危険な時の花の蕾がいると知ったから。
 だが、今更考えていても仕方がないことではある。湾は頭を切り替え、隣であくびを我慢している朝仁に笑いかける。

「早めに休んどけよ」

 そう言って、湾はまた、神謡を口ずさむ。
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